無意識日記々

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超一流を超えた一流の理由は"家"

宇多田ヒカルは一流だが超一流ではない、と書くとこの日記に相応しくないかもしれないが、それは長年の実感でもある。

確かに、その売上は母娘ともども突出していてお互いこの国では歴代No.1の、それもどちらも今後二度と破られる事のない記録を持っている。数字でいえば超一流だろう。また、歌唱力・作曲力・作詞力・プロデューススキルの総合力でもトップだろう。その点に関しても超一流と言いたくなる。

しかし、私が今持ち込んでいる論点はそこではない。ヒカルの音楽は個性があり質もずば抜けて高いが、"まとまった特別さ"がない。もっと踏み込んでいえば、後続を育てる何かに欠けている。

デビューから18年。間もなく19年だがその間にもヒカルに憧れてミュージシャンを目指したと思しき人たちも何人も居た。歌に影響が出ている人も居る。しかし、その総数は売上からすると恐ろしく小さい。THE BLUE HEARTS以降日本のパンクが変わってしまったり、Mr.Childrenの歌詞の載せ方がスタンダードになったりといった"甚だしい影響力"を発揮したアーティストではないのだ。

前回の論点は「閃きに恵まれているのが一流、呪われているのが超一流」という話であった。つまり、自らの手に負えない位に成長する何かを生み出して初めて超一流なのだ。ヒカルは自らが過去の歴史にないほどに高品質高密度な日本の商業音楽を生み出し続けているが、多産でもなければ高い影響力を誇るでもない。まさにその歌とアルバムが今目の前で売れて聴かれていてそれが物事のピークなのだ。なんというか、奇妙なまでに極々珍しい。

恐らく、本当に影響を与えるのは我が子に対して、なのだろう。第一子たるダヌパが将来ミュージシャンになるかもわからないし、第二子以降が生まれる兆しもないが(そんなん知らんわ)、何だろう、仮に子がミュージシャンをやりたいといったひにゃまたとんでもないのが出てくるんじゃなかろうか。i_と同じ世代なら漫画「北斗の拳」で聞いた事があるかもしれない、「一子相伝」というヤツである。藤圭子の圧倒的な才能はピンポイントでヒカルに影響を与え、宇多田ヒカルはまた我が子に物凄い影響を与える―そんなストーリーを今想像している。ならば色々しっくりくるのだ。

『家業を継いだんだぜ。』―最近脳ヒカルはミュージシャンになった理由をこう答える。酒屋の倅が酒屋を継ぐように、農家の長男が畑を相続するように、政治家の二世が地盤を引き継ぐように、音楽家としての看板をヒカルは引き継いだ。勿論家業なんていつ途絶えるかわからないが、なんだろう、ヒカルの音楽は、結局ずっと家族と共に在るという事だろうか。

歌詞の中には男女のラブソングと見せかけて母への思いを歌った歌が幾つもあるのではないかといつも勘ぐられているヒカルだが、そういった「母へのラブコール」を込めた歌をいつも誰と作っているかというと、父である。宇多田照實さんの名がプロデューサー・クレジットから外れた事は過去一度もない筈だ。…あ、『Blow My Whistle』とかどうだっけ?(汗) まぁ全部じゃないにしても殆どだ。Utadaで三宅さんの名前がプロデューサー欄に名を連ねなくなっても照實さんの名はいつもそこにあった。

そうなのだ。ヒカルは、父と母の歌を作ってここまで来ているのだ。もし子がミュージシャンになったら、なんだろう、総てが家族で簡潔して延々連綿と家業が受け継がれていくのか。その家族のあれやこれやの感動をお裾分けしてもらってるのが我々だとしたら、まぁ有り難い話なのだが、それがここまでの知名度と経済的影響力になったのだから見事なものだ。全く、不思議な一家だな。