無意識日記々

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戦争とヨーグリーナ、どちらがマズい?

差別の構造とは、前回述べたようにパワーゲームである。白人が圧倒的に優位にたつ社会であるからこそ黒人差別は生まれ、であるからには大きな力をもつ媒体は最大限の配慮を怠らぬようにしなければならない。力の不均衡に基づいた一方的な攻撃はシンプルに単なる社会の破壊である。

さて。ヒカルさんも常に「大きな力」の許で動いている。地上波テレビ局、地上波ラジオ局、新聞社、出版社などの力を借りられるメジャーレーベルに所属しているからだ。メディアは権力である。それは内閣や政府と何らかわりないどころか、即効性という点においては上回る。彼らにデマを流されたら終わりだ。あっという間に社会的に死ねる。社会人の生殺与奪をあまねく保持行使できる立場が巨大権力でなくて何だというのか。

これは常にバランスである。互いに利益を得ている間は構わない。しかし、例えば昔ヒカルが所属していた東芝EMI東芝が親会社なだけあって、彼らの利益を損ねる歌は発売中止となっていた。いい悪い以前にまずそれがパワーゲームなのだ。メジャーレーベルを使って大きな資産を築ける一方、表現の自由は制限される。TVCMの契約などとよく似ている。担当する商品を不支持するような発言は封じられる。焼き肉のタレのCMに何十年も出ていたのに「あ、私ベジタリアンなんです」と一言言えばあっという間に契約を切られる。勿論、ヨーグリーナは好きじゃないとか発言しても同様であっというまに…あれ?契約切られてないぞ??(白々しい)

まぁそれはいいとして。

ヒカルはメジャーレーベルとの契約によって表現の自由に大きな制限を抱え込んでいる。ただ、そこらへんは「ゲーム」と捉える事も可能だ。如何にギリギリのところで表現できるかを試しにくるタイプの表現者も多い。何か予め表現したいものがあるからというよりは、ルールの際を綱渡りをする事自体に甲斐を感じるタイプ。ヒカルにもそういう所があるだろうか。

私は、特にそういう類の"冒険"をして欲しいとは思わない。Pop Musicを作っていくのであれば、メジャーレーベルでなくては話にならないからだ。危ない橋を渡らなくてもいくらでもPop Songは作れるだろう。

ただ、『あなた』にいよいよ『戦争』という名詞が登場したのをみて、些かギョッとしたのも事実だ。直接的だな、と。映画のシナリオのせいかと最初思ったが全くそんな事はなかった。前に書いた通り、歌の前半は映画に寄り添っているが、スタッフロールになった頃に響く二番以降の歌詞はこの歌独自の世界観だ。ヒカルは自らの意志でこの名詞を入れている。

ロンドンに暮らしていると、日本在住者とは感覚が違うのかもしれない。それはわからない。しかし、少し一昨年の映画「この世界の片隅で」を思い出した。戦争と暮らしは地続きだが、一方で遠い世界の出来事でもある。繋がっていたり、分断されていたり。人の親となって、そこらへんに敏感になったかもしれないし、元々の考え方がすらっと出てきただけかもわからない。

ただ、ロンドンに住んでいるからだろうが東京に住んでいるからだろうが、日本語で歌って日本でリリースしている以上日本在住者の共感も視野に入っている筈だ。この国は戦争に近づいているのだろうか? 外から眺めているからこそ見えてくるものもある。ロンドンで息子と暮らしていて見えてくるこの国の今のありよう…どんな風なのだろうか。

今更だが、EMIとISLANDの2つのレーベルに跨っていままの方がよかったな、と思う。当時はそんな事考えもしなかったが、片方で"不適切な"表現ももう一方のレコード会社でなら表現できる、という状況を作り得たのだ。日本が戦争に近づけばEMIとの契約を破棄しISLANDから、米国が戦争に近づけば逆にEMIからリリースすればよい。日米ともに、となったら欧州でのMercuryがあった。どうとでも転べたのだ。今のSONY一本槍は、もしかしたらちょっと危ないかもしれない。折角の国際企業だ、日本がやばくなったらあっさり見限って他の国のSONYからリリースできるように、今から準備をしておくのも悪くないかもしれない。我々がそれを聴けるかは別として。