無意識日記々

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Pop Music Producer had made it

なりくんの新作からのストリーミングが一部始まった。うち2曲はダウンロード販売も始まったのでそちらでチェックする事も出来る。

こちらの興味は一点に集中する。「なぜヒカルがプロデュースをしたのか」だ。やりたかったのか、やらねばならなかったのか、いつのまにかやっていたのか。そこを知りたい。

恐らく今の段階でヒカルは自らの「プロデューサーとしての名」を云々したいとは思っていない。確かに、キャリアとか名声とかは眼中になさそうだ。まず私がこう書くのも、小袋成彬のデビューアルバム「分離派の夏」がPop Musicとしての完成度に重きを置いていなそうな雰囲気があるからだ。

ヒカルがプロデューサーとしての矜持やプライドを示すなら、まず手掛ける作品が「Pop Musicとして成立している」事を最重要視するものだとこちらとしては勝手に思っていた。それがそうではなかった。

Pop Musicは大人の世界の音楽である。少し言い方を変えれば、商業的に成立する事を目指すものだ。Pop Musicの多くが「10代のこどもたち」に向けられたものである、というのは事実としてある。が、彼らは養われているからこそディーンエイジャーなのだ。彼らの音楽消費をペイしているのは彼らを育てる大人たちである。つまり、本当のターゲットは財布の紐を握っている後ろの大人たち。

「Pop Music」というのは音楽性を指したジャンルではない。それは、大衆という不確定性要素に受け入れられる事を目指すアティテュードを指している。幼いこどもたちが音楽を始めたとして、クラシックやジャズやロックやラップやフォークミュージックをプレイする事は出来ても、Pop Musicをプレイする事は出来ない。なお、何歳だろうと契約を勝ち取り売り出す事が出来ればそれはもうこどもというより大人と言っていいだろう。やや便宜的だけれども。

マチュアのロックバンドがPopな曲調の楽曲を制作して演奏する事は出来る。しかし彼らがステージに立った時に「俺たちはロックをやっています」「Popなサウンドの曲を歌います」と言う事はできても「Pop Musicやってます」「Popsを演奏します」とは言えない。もしアマチュアの彼らがそんなMCをしたら「じゃあ次は有名な曲のカバーかな?」と誤解する人が続出する。Pop Musicは立場と態度で携わるジャンルなのだ。

そういう私なりのPop Musicの定義に照らし合わせた時、なりくんの曲は今のところ全然Pop Musicではない。そのサウンドの責任者は勿論プロデューサーたるヒカルなのだから、ヒカルはそれをよしとしたという事だ。今までプロデューサーとして自分が手掛けた作品全てを、無理難題を押し通して悉く"Pop Music化"させてきたPop Musicの権化がその縛りを解き解いたのだとしたらこれはかなりの事件である。

果たして、ヒカルの意図はどこにあるのか。解禁になったなりくんの楽曲を聴きながらそこの所を詰めていこうかなと。