ヒカルとキコとダヌパの話ではなく、まず一般論を語る。子にとっての離婚の是非についてだ。両親が離婚すると子は可哀想だという。それはどういう事なのか。
人の心は変わる。そして親とて人なのだ。親の心も変わるだろう。結婚した当初とは違う心の人になる。それはありふれている。もし、心優しかった片親がいつしか心変わりし子を虐待するようになったとしたら。もう一方の親はその片親から子を引き離そうとするだろう。そして、離婚するかもしれない。この場合、子にとって離婚は状況改善策の一つだ。確かに、虐待をする片親を改心させるのも一つの方法だが、親が離婚を成立させ、物理的に虐待から引き剥がすのも一つの方法だ。そちらをとる事もあるだろう。
とった場合、子は虐待から解放される。子にとって離婚は福音たりえよう。
真逆もある。両親を共に愛している子。しかしこれまたいつしか両親の間柄が冷める。人の心は変わるのだ。子は毎日仲の良い2人と居たい。しかし両親は仲直りをしようとせず離婚を選択する。この場合、子にとって離婚は絶望である。
さて。つまりは、子にとって離婚というものは多義的だ。一般論を語ったが、即ち、そこでは何も導かれない。あるケースでは現在より幸せになるだろうし、あるケースでは不幸せになるだろう。身も蓋もないケース・バイ・ケース。個々の事情をよく知る以外どうしようもない。
従って、ヒカル親子の事情を知らない以上、今回の離婚がダヌパにとっていい事だったのかそうでなかったのか判断しようがない。場合によっては「おめでとう」と言うべきかもしれない。「残念だったね」と声をかけるべきかもしれない。わからない、のだ結局。
それが現実では、離婚は一様にネガティヴなものとして捉えられている。それは何故かというと、「結婚」という皆から祝福を浴びた"誓い"を破ったからである。
現実には、離婚によってそれに関わる人たちは幸せになったり不幸せになったり何も変わらなかったりする。それは実効的な話である。一方で、そもそも結婚とは周囲に対する宣言であり、約束、"誓い"である。かなりの場合、結婚式において2人は永遠の愛を誓うだろう。単なる形式だけだって? その通り。約束や誓いはそれを結んだ時点ではただの空っぽだ。そこから人生を通して中身を入れていくものである。
結婚とは、その"誓い"を周囲の親しい人々や役所(国や自治体)に宣言・宣告・報告する事だ。勿論、婚姻届も離婚届もただの手続きであり、役所では何の色もなく粛々とこなされるだけだろう。が、周囲の人に知らせたのなら、その"誓い"を果たせなかった事に関しては、何らかの一言があって然るべきだ。
ただ、当たり前だがその「周囲の人」に我々ファンは入っていない。想定されるのは結婚式にご祝儀を包んだ親しい人たち、な。なので、ヒカルとキコは彼らに謝るなり報告するなりする義務はあると思うが、まぁ流石にそれは「勝手にやってくれ」である。
で。我々無関係な赤の他人がもし口を挟めるというのなら、今回の離婚でダヌパに著しい不利益が出る場合、だろう。ここが難しい。一体、どの程度の不利益が出れば我々は赤の他人の家庭に入り込み生みの親を押しのけて子の基本的人権を死守できるのか。虐待と躾の境界線はどこなのか。極めて難しい。これは、その手のプロフェッショナルな方々も日々頭を悩ませている問題であって、我々は彼らから謙虚に学ぶしかない。その学び無くして、ダヌパにとっての両親の離婚の意味の良し悪しを問うのは難しい。出来るのは、彼とその両親がこれでひとつ前に進みよりよい人生を歩めるよう願い祈る事だけだ。
長くなった。固くなった。ヒカルが万が一読んだとしたら、と思うと怖くて仕方がないのだが、デリケートな問題なだけに筆の力を緩める事はできない。本人の報告がある迄は暫しこんな感じだろうな。