無意識日記々

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switch off

来週からSWITCHの事を書くと言った手前まだ読む訳にもいかず。読んだら語りたくなるに決まってるんだから。しかしこれレジに持っていくの恥ずかしいな。エロ本よりキツい。表表紙のみならず裏表紙までヒカルとはな…自分の性癖を喧伝して歩いているみたいでな。「恥ずかしい」という感情は他人に対して抱くのではなく自分自身からの視線によるのだというのがよくわかる。おっさんが「SWITCH」を買っているのをみて変だと思う人なんて居ないだろう。せいぜい、今号であれば「あぁ、宇多田ヒカルのファンなのかな」と思う程度だし、世間的に宇多田ヒカルが好きだと言ってそれが変に思われる事はない。有名とはそういう事だ。つくづく、恐ろしい。

それでも私はこの雑誌を手にとって恥ずかしいと思う。他の誰でもない、自分自身に「やーい、やーい」と指を指されるからだ。冷やかされるからだ。それに対して顔を耳まで真っ赤にして「ちくしょー」と思う。

似たような事は他にもあった。ある日ipodに付属のイヤホンをつけて電車に乗ったらなんだか恥ずかしかったのだ。「いや違うんだ、そうじゃない。普段の私はもっと音のいい…」と頭の中で言い訳をし始めた。電車の中でおっさんがどんなイヤホンしていようが気にするヤツなんて居やしない。つまり、気にしているのは自分でしかない。いや、今のipod付属のイヤホンはかなり改善されてるのよ昔の酷い有り様とは違って。うまくやるもんだAppleも。

この、「自分自身を外側からみて評価する自分の目線」というのは、そう、「セルフ・プロデュースの目線」である。外からみて、どのようなありようがよりよいかを評価し、そちらに変化するように仕向ける。それを仕事(works)と言い、制作(produce)の根幹構成要素を成す。仕事の定義はかけた力と動いた距離の積だ。いくら力をかけても、動かなければ、変化がなければ仕事とはいえない。頑張ったという気分に用はない。外からみて何が変わったかを知る。そこから"制作"はスタートする。

ヒカルはセルフプロデュースの鬼である。私たちの誰よりも宇多田ヒカル宇多田ヒカルの歌の魅力を見極め、最大限に演出する。うちらがサントリーのCMをみて「Hikkiかわいい!」と思う何倍も「Hikkiかわいい!」と思ってモニターチェックしてる筈。我々が「なんていい歌だ」と唸る何倍も「なんていい歌だ」唸り込んでいる筈。

だからといってそれが天然モノではないという事ではない。天然モノをみつけそれに魅了され、素材をそのまま素通りさせる事もまた立派な制作、プロデュースである。寧ろ、その勇気こそ讃えられたし。どうしたって不安で「よりよくするために」と手を出しがちなのだが「これ以上よくはならない」と見極めて放置するのが大事。

ヒカルは、どこまで出来ているだろうか。素材のよさを素直に押し出す事は宇多田ヒカルにとっていちばんの課題である。幾ら自分を外目線で演出しようと、天然の、本物の魅力は揺るがない。でも、そんな人に嘘をついて貰えたら幸せだろうな…。