無意識日記々

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『初恋』の歌詞構成6

『言葉一つで傷つくようなヤワな私を捧げたい今』はその前の前の『人のせいにしては受け入れるフリをしていた』を受けている。対比である。かつては様々な事から目を逸らし真正面から向き合う事をしなかった主人公が今初めてそういった"自分を守る仮初"を脱ぎ捨てて、裸になって対峙している。初めてだから傷つきやすいのは当たり前だ。"仮の初め"から『初恋』という"真の初め"に推移した瞬間を歌っている。

そこから転回点のフレーズが来る。『二度と訪れない季節が今終わりを告げようとしていた不器用に』、だ。文意としては毎度指摘している『Goodbye Happiness』と同じテーマ、無垢と無知から恋を知ってもう後戻り出来ないよという一節だ。宇多田ヒカルにおいて「恋に落ちる」とは「あなたを知る」ことそのものである。違った言い方をすれば、あなたが世界の中のその場所に居る事に気がついた、かな。恋は知なのだ。

今回はそこに『季節』という言葉を持ってきているのがポイントだ。その効果の程は後々述べるとしよう。何しろここは「時代」とか「時期」とか、ある一定の時間帯を指す言葉なら何でもよかった筈だから。

それはそれとして、そして『不器用に』である。ここは今までメロディーの構成上『初恋と』が来る筈の場所だった。が、前段が「終わりを告げようとしていた』には肝心の『これが』が含まれていない。それをリスナーが感じ取るや否やというタイミングで『不器用に』が切り込んでくるものだから、歌に浸りながら自然な流れで新しい展開へと誘(いざな)われる。見事な転回点、グッドアイデアだ。

そこから新しいメロディーの登場である。『欲しいものが手の届くとこに見える』『追わずにいられるわけがない』―ここの歌詞は『勝手に走り出す足が今』と繋がっているとみるべきか。徹底して物理的な描写をしてきた所からここではもう一度所謂"一般論"に立ち返っているのだが、今度は"特別の中の普遍"である。歌詞の入り口は間口を広くとって、普遍から特別に至り、その特別の中に隠された普遍を見いだす。そのPop Musicianたる宇多田ヒカルの奥義がこの一節には象徴的に込められている。ここの歌詞をAメロに持ってきても共感は得られなかったろうが、Bメロからサビへの流れを2度経験している聴き手にはこの"特別の中の普遍"がスッと入ってくる。これが「構成力」なのである。

楽曲はクライマックスを迎える。『正しいのかなんて本当は誰も知らない』―この一節は至極強烈だ。何度か繰り返してきたようにこの『初恋』は知る物語である。『私に知らせるこれが初恋と』―恋を知る、即ち知を知り胸を高鳴らせ足を一歩踏み出した主人公が、曲のいちばん肝心となる部分で『誰も知らない』と言い放つ。このインパクトは絶大である。先程「特別の中の普遍」を辿った事で『誰も』という文節の意味が深まる。一般論を語ってもいいタイミングをここに作っているのだ。恋を知る主人公は世界中に居る。誰もがあなたの人生の主人公だ。それに気がつくのが恋ならば、恋を知る誰もが知らないのは「それに沿って何をするのが正しいのかわからない」という恋において最も普遍的な結論なのである。そのどこまでも現実をみつめきった視点を普遍の中の特別の中の普遍を通して表現した。圧巻だ。