無意識日記々

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月曜の朝

先週の「SONGS」でいちばんインパクトのあった発言は「通り雨の途中で死んだら降り止まない」であった。その発想に自分が至らなかった事にショックを受けた。「俺が考えついた事にしといてくれへんか」という意味で。

降られている方を消す、或いは止めるという視点がなかった。ヒカルがこれをナチュラルに思いついたとすればそれはヒカルが毎日毎秒を死を身近に感じて生きているから、って事になるだろう。

毎日眠る前に「今日も生きてた。生き残った」と確認するような生き方は、いつからなのか。「お母さんが死んで、私は生きている。」という対比が発端なのか、或いは幼少の頃の0.5秒後の事もわからない日常に"生きた心地がしていなかった"のが発端なのか。本人もよくわかっていないかもしれないな。

毎秒を生死の選択とする。親も安心のアテにならない、どころかいちばん混乱を齎す存在だったりする。それを踏まえた上で『初恋は両親』と言い切っているのだとすると、お前はどれだけ愛が深いのかと問い質したくなる気分。

かといってヒカルは慈悲深い聖母タイプでは全然無い。誰であれ暖かく包み込む、というよりもどの1人も1人としか見ていない、という最後まで1対1の存在だ。それを普通の人間関係になぞらえるなら、私は恋人よりも友人、親友に近い感じがする。

ヒカルへの感銘に最も多いのは、ほら、あれだ、その、「私の事をわかってくれるのはヒカルちゃんだけ」ってヤツだ。どうにもこれは、あまり恋愛感情っぽくないというか。ここが難しいところでな。同性から慕われているからといって同性愛的ではない、というのは女性歌手にとっては至って普通の事なんだけど、ややこしいのは、結局それを男女のラブソングとして描くから、なんだろうか。

それを考えると前作の『ともだち』は画期的で、表現の可能性が広がった、或いはリラックスしたといえるのだが。解釈の幅は広いが『二時間だけのバカンス』も幅が広がるタイプだわな。

『日曜の朝』に準じてか反してか、謎解きは進んでいる。ヒカル自身の力によって。その過程を隣でみているのも楽しいが、たまには自分でピースを嵌め込んでみたいのよね。