無意識日記々

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喩え話の虚構と現実

ヒカルは喩えが巧い、というか絶妙な印象をぼんやりと、いやはっきりとかな、持っていたんだが、どうにも「下着の色は何色?」は旗色が悪い。率直に言って何を喩えているのかわからない。

これは、インタビューでも鼎談でも言っているのだが、インタビューで歌詞が実体験かどうかを訊かれた時の気分がどうも下着の色を訊かれるのに近いらしい。これを読んで「そういうものなんだね〜」という反応をした人ならそれなりに居るだろうが、「そうそうその通り!」と膝を打てる人はどれ位居るのだろうか。

そもそもは、歌詞とは作品なんだから由来やら制作過程やらを云々する前に作品としての評価を聞かせて欲しいのにそこをすっ飛ばしてそんな事訊かれるからヒカルは戸惑う、という話だった。

これはよくわかるのだ。結構今日は頑張って晩御飯作ったぞ。自分でも会心の出来だと思う。早速家族に食べて貰いましょう。うただきます。で振る舞った人は食べた人に訊くわけですよ。「どう?美味しい?」と。すると食べた人はこんな感じで返事をする。「これ、隠し味にチョコレート入ってる?」「あ、うん。入ってるよ。で、どう?」「このたまねぎは茨城産かな?」「…ええっと、ごめん、ちょっとそれはわからないな。…お口に召さなかった?」「わからないか…下拵えの時にヨーグルトは?」「入れてますよ。何? 結局美味しくなかったって事それ?」「誰もそんな事言ってないよ」「何よもう、マズいならマズいってハッキリ仰って下さればいいじゃない」「その事なんだけど…そもそもあるお料理が美味しいかマズいか、ってどう判断すればいいかわかんないの私。」「…ちょっとそれ本気で言ってんの???」

…これが、ヒカルの危惧する「楽曲の出来の評価をせずに実体験かどうかとかそんなことばかり訊いてくるインタビュー」に対する私なりの喩えだ。確かに、曲の評価をしているうちにその由来が気になってくるというのはあるだろう。「これ、コクがあって美味しいね。ひょっとしてチョコレート入れた?」と訊かれれば「そうなの! よく気付いてくれたわね。嬉しい!」ってなるよね。この「美味しいね」の部分がないインタビューが苦手で困惑すると言っている訳だ。

喩えでなく実例でいえば(架空だけどな)、「『嫉妬されるべき人生』に『母の遺影に供える花を替えながら』というのが出てきますが、これって実体験ですか?」と訊かれたら「いや、まぁそうかもしれないけどそういう事じゃなくてさ」となるだろう。これを「『嫉妬されるべき人生』、凄くいい歌ですね。特に『母の遺影に供える花を替えながら』という一節、ありありと情景が浮かんできて様々な感情が湧き上がってくるんですよ」と言えば「ありがとう! 私もそこ気に入ってるんだ。」「この情景の喚起力、強く感じられるリアリティというのはどこから来ているとお思いですか? やはりこれは…。」「うん、そうだね。リアリティか…いやさ、実際自分で花を替えてる時にさ…」みたいな話の流れに、なるかもしれない。ならないかもしれないけど。しかし、大分マシではあると思う。

私はヒカルの「歌詞が現実か虚構かを訊かれるときの困惑」というのをこういう風に解釈したのだが…さて…これのどこが「今日の下着の色を訊かれているみたい」に感じられるのだろうか。うむ、わからん。

わからないままじゃ悔しいので次回考えてみるか。