無意識日記々

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再考:Goodbye to What ?

『Good Night』が「ペンギン・ハイウェイ」のエンディングにぴったり、というのに相変わらず異論はないけれどひとつだけ気になっている点がある。2番の歌詞『さよならなんて大嫌い』だ。

ここだけはあの爽やかなエンディングに相応しくないのではと思っている。少なくとも小4のアオヤマ君はお姉さんにさよならするのが嬉しかった訳ではないのは明らかではあるのだが、かといって『さよならなんて大嫌い』というような感情まで持っただろうか。寧ろあの映画は「いつかまたお姉さんに会えるはず」という希望を懐きながら終局を迎えるのが似合っているでしょう。未だに原作に触れていないのでその解釈で合っているかはわからないのだけれど。

ただ、この『Good Night』に於ける“二十歳のアオヤマ君”ていうのはヒカルの創作な訳でね。そこでの彼の性格や考え方がどうなっているかは映画だけから推し量るべきではない、わね。

恐らくこれは、ちと歌に映画を求め過ぎたのかな。例えば『あなた』。1番の歌詞は映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」に忠実に沿ったものとなっていて2番になったら歌独自の世界に引き込むという構成になっていた。エンドロールもそれに配慮してか知らずかその構成と呼応した流れになっていたように思う。「ペンギン・ハイウェイ」も同様の構成になっていたのに観てるこちらにお姉さん(とそのおっぱい)への未練が有り過ぎてやや歌の世界に没入し切れていなかったのではないか。一回しか映画を観ていないから確たることは言えないのだけれど。そんな仮説も有り得そう。

でも、映画だけを観た身からすれば『僕は思い出じゃない』『さよならなんて大嫌い』『この頃の僕を語らせておくれよ』といった歌詞は少なくとも小4のアオヤマ君から想像のし易いものではない。勿論、二十歳になって大人になったんだねで済ませてもいいのだけれど何か少し違い過ぎるかなとも思う。

なら映画を離れてヒカルが本来この歌で表現したかったことは何だったんだと立ち返って捉え直してみれば、そもそもこの歌のタイトルは『Good Night』なのだ。「おやすみ」と語り掛ける歌。それってつまり子守唄やんね普通。

となると。考えたくなることがある。ヒカルはお母さんに子守唄を歌ってもらった思い出があるのだろうか。あまりそういったエピソードを思い出せないのだが、或いは私が忘れているだけかもしれない。でも、その思い出のあるなしで『Good Night』の歌詞の解釈が変わる気がする。

無論そんな背景を考えなくても飲み込めるように歌詞は書かれている。そこはちゃんとしている。だけどヒカルがこの歌を作った理由及びこの歌に『Good Night』と名付けた理由などを考えようとした時には、余計な詮索が必要になりそうってこと。



さて。となると。例えば、リフレインの『Goodbye』を告げる相手がただ『君』なのではなく、『Good Night』の一言なのだと考えたらどうか。つまり、おやすみを言ってくれる相手に別れを告げる歌なのだとしたら…

…ちょっと今夜は長くなり過ぎたな。この続きはまた機が熟したら、だな。いつになるかわからないけれど、“次回”をお楽しみに。