無意識日記々

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何故か急にまたVR語りをしたくなった私

VRに対して以前「視覚のリアリティを追究するのはいいけれど、ミュージシャンなんだから聴覚のリアリティにも注意を払わなければいけないんじゃないの?」と皮肉を言った。耳から聞こえる音もまた眼前に在るかのように響いてこなければいけないのではないか、と。

これは確かに正しいと自分でも思うが、恐らく、そこまでは必要は無いんじゃないかというのが本当の“本音”だ。現実問題として技術的に難しいというのもあるだろうが、それ以上に、「PAを使った音楽のリアリティなんて迷子」というのが大きい。

ちと意味不明だね。要は、スピーカーから鳴らすのが前提の音楽って、何がリアル、何が“本物”なのだろう?という問いである。

クラシックの生楽器ならいい。あれは人の力で楽器を鳴らしているのだから。生楽器の演奏というのは「そこで起こっていること」がそのまま耳に入ってくることだ。

スピーカーはそうではない。「よそで起こってることを伝えてくれる」装置だ。それを使うのが前提の音楽の場合、そもそももともと「そこで起こっていること」が存在しなかったりする。一筋縄ではいかない。

だが「歌」は別だ。スピーカーを使うことが前提だとしても、人の声はどこかで必ず“そこで実際に起こっている/いたこと”である。

で。我々が究極的にリアリティを望むのは「目の前で宇多田ヒカルが“マイク無しで”歌うこと」なんでないの? 違うかな。人によるかもしれないが、少なくとも自分はそうだ。

今回のVRは「Hikkiがまるで自分ひとりの為だけに歌ってくれているみたい」だというので好評だった。しかし、聞こえてくる歌は間違いなく“マイク越し”だったことだろう。そこを飛び越えられるなら、VRの価値は計り知れないものになる。

リアリティを求めるなら、最終的にはそこに行き着く。他方、ただポップ・ミュージックを楽しみたい向きにはそういうのは別に要らない。音質が優れているに越したことはないが、リアリティが欲しい訳じゃない。如何にもマイクとスピーカーを使いましたというサウンドが、ある種の“商品性”を確保する。生々しい人間がそこに居ないからこそ消費したくなる価値がある。それが疲れた現代人に必要な癒しなのだと強く言うことすら出来るだろう。何が欲しいか、何が要るのかをよくよく考えながら、リアリティの追究を行っていって欲しいものである。応援はしたいけど、独り善がりな闇落ちなんかは御免なのですよ。