無意識日記々

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年号がまた変わる前に

一昨日だっけ? 白血病罹患を公表した池江璃花子選手に対して「ガッカリした」と発言した大臣が全方位から非難を浴びたってニュースは。

時代が変わったんだなぁ、としみじみ思った。昭和の頃ならこの程度の発言、取り上げられることすらなかっただろう。政治家なんてそんなもんだし、おっさんの認識なんてそんなもんだ。今や気遣いや思い遣りが足りないと断罪されるのだな。いい時代になったものだ。

自分は言葉狩り云々に対してはかなり鈍い方なのだろう。嫌がる人が居るならわざわざその言葉を使う必要もないだろう、と考える。だから、ちょっとした失言をも論われる現状はそんなに嫌じゃない。

この間も小森くんの話で「くちごもりくん」とか「ひきこもりくん」とか書いた時についつい「読者にこもりさんという名字のかたがいらしたら気分を害されないだろうか」と思案した。結局、「この小森くん自体はエリートなんだから茶化してもいいだろう」と判断して没にしなかったが、もし苦情が来たら多分二度と書かない。それほど拘るような表現でもないからだ。

著作権法がまたいじくられるというニュースも読んだ。「スクショすらダメなのか」というのが合い言葉になっているが、実際、周りに気を遣わなかった昭和の時代に生きた人々は今の御時世さぞや息苦しかろう。心中お察しする。

そういった人々はきっと一服吸って息抜きをしていたんだろうが昨今そちらも息苦しい。私個人は煙草がコカインやヘロインと同じように法律違反になってくれても何ら困らないので言ってもリアリティは無いのに言ってしまうが、ほんと大変だな君ら。ヒカルが禁煙に成功して1年ときくと、その意味で安堵する。息苦しさと少し無縁になれるのならと。

言葉を狩られようが煙草を取り上げられようがどうでもいい、というのと、しかし、自由を奪われるのとは別の問題だ。そこに強制力があってはいけない。できる限り多様性を認め合う社会が望ましい。その中で相互理解を進める為には徹底した具体論に終始せねばならないという事実をついつい見落としがちなのだ私達は。地道にお互いの事を知っていかなければ多様性を認め合うなんて出来っこない。とはいえそもそも、言葉や煙草が狩られるのは、使用者の無神経が問題なのだ。狩られた言葉や煙草自体の害はそんなでもない。そこで気を遣えなかった昭和生まれが取り残されているのである。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、ここを他山の石としないと権力を増長させるだろう。難しいが、過ぎたるは尚及ばざるが如し。行き過ぎはよくないのである

── 敢えて入り組んだ語り方をしてみたのは、たぶん、言いたいことにそれらの問題が絡みついているからだ。精神と時代のギャップである。旧世代の人間はそこで依怙地にならずに、若い人に道を譲れるか。まだまだ幼い精神の老人たちにそんなことを期待するのはやはり時期尚早なのかもしれない。だが、それを…あれ?ヒカルのおならツイートに寄せられたバカウケ必至リプライ特集をしようと思ってたのになんなんだこの日記は? ま、いっか。こういう日もあるってことで。