無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

『だった』『でした』

『嫉妬されるべき人生』。『母の遺影に供える花』の一節のせいでどうしてもヒカルの自伝的な歌かと思ってしまうがここでは一旦その要素は捨象してシンプルに歌詞を読んでみる。

すると、一応のストーリーが見えてくる。運命の2人が出会い結ばれ新しい命を授かる物語だ。この中で『五十年後』というワードが2回使われているのがポイントだろう。

1回目は『今日が人生の最後の日でも 五十年後でも』の文脈。ここは、敦盛の舞で触れたように、人間には長い時であってもあっという間に過ぎるこの人生の時間を共に添い遂げようと誓う場面だ。或いはWikipediaで“誤解”として切り捨てられていた「人間の一生の時間」という解釈でも勿論いい。誤解も蔓延すれば真実になるしな。いずれにせよ、結ばれた2人の今後の人生死ぬまでという意味で使われている。

2回目は『今日が人生の最初の日だよ 五十年後でも』と続いていく場面。こちらは生まれてきたばかりの赤子のこれからの人生の長さと儚さを暗示している。それ即ち1回目の「結ばれた2人の結婚生活」とまさに同じ五十年を指すのだが、視点が若干異なる訳だ。

その視点の差異がそれぞれの『五十年後』の続きの歌詞の差異を導き出している。

1回目は

『あなたに出会えて

 誰よりも幸せだったと

 嫉妬されるべき人生だったと

 言えるよ』

2回目は

『あなたを見つめて

 誰よりも幸せですと

 嫉妬されるべき人生でしたと

 言えるよ』

となっている。1回目が『出会えて』、2回目が『見つめて』になっているのは、人生の途中で合流した相手とたった今生まれた相手との違いを感じさせる。そして語尾も。1回目は『だった』、2回目は『です』『でした』だ。多分、どっちがどっちというのは然程重要ではない。1回目と2回目で言い方を変える─つまり、話し掛けている相手が異なっている事を示唆するのが目的なのだろう。結局は、1回目が運命の出会いを果たした相手、2回目がその相手との間に生まれた新しい生命、という事だ。

以上が、恐らくいちばんオーソドックスな『嫉妬されるべき人生』の歌詞の読み解き方である。“オーソドックスな”というのは、ただそこを出発点にすればよりわかりやすいというだけで、他の解釈を許さない訳では当然無い。ここを起点にして他にどのような解釈が可能なのか、映画の公開までまる3ヶ月あるから、その時間を使って見ていく事にしますかね。