「…というのが今回言ってみたかった事だ。」

ヒカルの事になると「貶す」のにもエネルギーを使えてしまう私は本当に性格が悪い。勘だが、今夜はこの日記のアクセスが少ない。言わずにいたネタを書いてみようか。

丸ノ内サディスティック」のカバーがイマイチだった件について。

1年前にラジオで披露したカラオケは結構好評だったように思う。椎名林檎との兼ヲタが多い為「やっぱりオリジナルの方がいい」が最大多数派だった気がするが、思うに、単純にカバーバージョンの楽しみ方を知らないだけなのではないかと。

カバーがオリジナルを直球で凌駕するのは稀だ。何より、殆どの場合それを狙って演奏されていない。オリジナルが好きすぎて忠実にカバーしようとするか、そうでなければ変化球。違った角度から楽曲に光を当て新たな魅力を提示する方法を採る。

オリジナルに忠実なカバーはどれだけ優れていても99%の出来でしかないから基本的にオリジナルが至上だ。変化球の方は、原理主義者にはウケが悪い。いずれにせよちょっと捻くれていたり余裕があったりでないとカバーは楽しめない。要するに「遊び」と戯れられるかどうかだ。

その点、私はオリジナルの「丸ノ内サディスティック」に何の思い入れもない(今書いてても丸ノ内だっけ丸の内だっけ丸之内だっけってなってるくらいにな)ので、原理主義的な視点はない。オリジナルに似ても似つかなくても全く問題なく評価できる。

そんな人間に「…イマイチじゃね?」と思わせたのだから、結構マズい気がする。

ジャズ・セッション風のバッキングにデュエットを乗せよう、というアイデア自体はいいと思う。が、肝心の中身が伴っていない。アンニュイにしたかったのかニヒルにしたかったのかムーディにしたかったのか意図がよくわからない。「とりあえずフリーでセッションして貰って、何が出てくるか見てみよう」といって何も出てこなかった感じ。

繰り返すが基本的なアイデアの枠組み自体は面白いと思うのだ。この方向性でいいトラックが録れる可能性はあった。しかし、そうはならなかったのだ。

「これだったらラジオで流したカラオケの方がいいや」と当時思った。勿論、カバーアルバムにカラオケを収録する訳にはいかなかったからそれは御無体な話だが、この、カラオケのエネルギーと正式バージョンの空虚さの対比は、そのままヒカルとなりくんの関係性の変化だったのでは?というのが今回言ってみたかった事だ。その推測が当たっていれば裸婦抱くのセトリ問題とかと色々符合してくるかもしれない。音楽は正直だ。伝わってきたまんまを受け取ったらそれが正解なのかもしれない。