無意識日記々

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物語を超えて

「物語の中盤で重要人物が死ぬ」例としていつも「あしたのジョー」を出してきていたんだけど、そういや「ワンピース」もそうなんだよね。どちらも、程度の差はあれど絶望の淵に叩き落とされてそこから這い上がる様が作品中に描かれていた。

我々にとっては藤圭子様がそれにあたるが、ヒカルの復活の過程を共有しているようなしていないような不思議な感じがある。『道』で『You are every song.』と歌っているからには、どのヒカルの歌にも母との関係が直接にではないにしても歌われていて、特に『Fantome』収録曲は『桜流し』以外(で、いいのかな?)総て藤圭子様御逝去の後に書かれた曲だと思われるのでそれらを通じてヒカルの絶望とそこからの復帰・復活を少なからずなぞっている、という見方も出来る、かもしれない。

勿論我々がヒカルの深い悲しみや絶望を追体験できる訳ではない。そういう過程があったのだと知識として知れるだけである。しかし、それだけでも随分大きい。

今は随分安定して音楽活動に勤しんでくれているが、そういった過程の影響が消えたという風には私は捉えられていない。それこそ、矢吹丈が最後までそうであったように、モンキー・D・ルフィが目下そうであるように、その影響を昇華したり忘却したりするというよりは、厳然たる事実として受け入れて共に生きている、という風にみえている。

少し話が飛んでしまうが、ヒカルは『Fantome』を『今後も音楽は続けるけど、こんなアルバムは二度と作れないだろうと思っています。』と評してはいるけれども、何かそこまででもないんじゃないか、という予感があるのだ。人生の一ページを切り取った、という点ではどのアルバムも特別であってそれぞれに再現不可能で、というのはあるだろうしそこに何の異論もない。更にもう金輪際ここまで強烈な感情体験が来ることもないだろうし来て欲しくもない。だが、ヒカルが音楽に、歌に携わるというのはもっと“大きな”ことな気がしている。本人にそのつもりがなくても、『Fantome』の特別さ以上の何かに、いつか辿り着けるんじゃないかと感じています。