無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ストリーミングによる過去楽曲のカタログ化

ストリーミングが始まった時点でアルバムという単位の崩壊・終焉は叫ばれていた。先進的なアーティストはアルバムに拘らずどうプレイリストを構築していくかに腐心してきている。

ヒカルは、前回触れたように歳上のファンと歳下のファンの両方から支持されている。特に20年来、シングルヒットよりモンスターアルバムに重きを置く“アルバム・アーティスト”として名を馳せてきた。故に古参のファンは自分も含め「時代は動いているのだろう。だがそうは言っても宇多田ヒカルがアルバム・リリースを止める事は無いよ。」と高を括っている。しかし、本当にそうだろうか?

Prisoner Of Love』のシングルCDがリリースされたとき「これが最後のシングルCDになる」と誰が予想しただろう? 今年『Face My Fears』のCDが出たお陰で漸くその暫定的な“最後”から解放されはしたが、なんというか、あの頃みんな結構油断してはなかったか。

いや確かに、もう2008年には「CDなんて最初にリッピングしたら一切触らない」とう風潮は定着していた。だがだからってシングルCD自体がなくなろうとは、ね。要らないからといって無くなるとは思っていなかった。いや、消費者が要らないとなったら無くなるさねそりゃ。道理だわね。

アルバムも、どこかの時点で“要らなく”なるかもしれない。いや流石にそんなことはない、と仰られるのも理解できるが、配信オンリーのアルバムなんてアルバムといえるのかどうか。一曲ずつ買えるゆだから。ストリーミングに到っては買おうが買うまいが全部聴けるのだから検索の仕方次第ではアルバムという存在を視界から消すことすらできる。そういう状況を鑑みると、結構危機感を持つべきなんじゃないかと。

んだけど、自分がいちばん気にしているのは、どちらかといえばヒカル自身にアルバムという形態に対する思い入れが果たしてあるのかどうかという点だ。いつもアルバム制作が終わった直後は疲労困憊でアルバムの曲順を決める作業を照實さんと三宅さんに任せている印象がある。収録曲の一曲一曲に思い入れはあれど、そのリリース形態に関心があるかというと、ちょっと決定打が無い。

ヒカルは一方で「自分の作品は総てアルバムに入れたい」といった趣旨の発言を過去にしたことがある。なら"Blow My Whistle"や“By Your Side"はどうなんだと言いたくなるんだがそこは置いておくとして、要は未来にわたって自分の楽曲がカタログとして手に取れるようになっていて欲しいという事らしく。ならばストリーミング時代は“宇多田ヒカル”と"Utada"で検索してずらっと出てくる曲を聴けばよいだけになる。アルバムという括りでどこかに収録されている必要はない。宇多田ヒカル名義でストリーミングに載っていさえすればよいのだ。

となると興味が出てくるのは、今のヒカルの音楽生活の実態だ。今、ヒカルはどんな風に音楽と触れ合っているのだろう? じっくりひとつのアルバムを聴き込んだりするのだろうか? そこの感覚次第でこの問題はどうとでもなるんでなかろうか。

そうなるとやっぱり目下のヒカルの音楽趣味がリアルタイムでわかる『Kuma Power Hour』の復活を期待したくなるんだよね。え、もう6年前なの。うわー。

本来ならもう地上波ラジオ局でのオンエアに拘らずポッドキャストで配信して欲しいところなんだが、やはりそこは著作権管理が包括契約な大手の力を借りる方が何かと都合がいいんだろうかね。

次善の策として、そう、なりくんがリリースしているように、ストリーミングで「オススメプレイリスト」を紹介してくれるだけでも大分違うのだが、やんないのかね。功成り名を遂げた超ビッグ・アーティストのオススメプレイリストに採用されたことで大ブレイクを果たす新世代アーティストが出てきてくれてもいいんだけどなー。結構凄いプロモーションになると思うんだけど如何だろうか。

これからの時代はそういう風にビッグアーティストが自身の楽曲も他人の楽曲もごちゃ混ぜにしてどうプッシュしていくかが重要になる。ヒカルがどんな立ち位置を築いていくか注視しておきたいポイントだ。