無意識日記々

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極彩色の上に描かれた淡色

問答の中で出てきた言葉の中でも自分に印象的だったのが「0になる為に音楽を聴いてる」の一言だ。音楽を聴いていると様々な感情表現に出会す。喜怒哀楽は基本だが、慣れてくると嫉妬や見栄や意地や依怙地の感情までみえてきたり。そういった種々を聴いているうちにふと自分がある偏った感情に凝り固まっている事に気づかされてスッと肩の力が抜けて視界が広くなる。嗚呼、全然何も見えてなかったんだなってその時になって漸く辿り着く。

若い頃は音楽といえば退屈な日常を裏返すエキサイティングでエモーショナルなサムシングとしてのツールだった。どれだけ感動できるかが基準で音源を漁っていた訳だが、今はその態度はそのままに、エキサイトメントの方向性の多様さ多彩さにも気が向くようになった。である程度の幅広いエキサイトメントを自分に集めていくと自然に感情が0になってきて安定する。安定の上に興奮が乗っかっていたのが若い頃であるのなら、今は興奮たちを掛け合わせて安定を得ているという感じか。これが大人になるという事なのかも知れないな。四十にして惑わず、ってヤツだ。まぁ、老けただけなんだけどね。

ヒカルが『ULTRA BLUE』の中でも『日曜の朝』を好んでいて、その中でもとりわけこの歌詞を選好しているのは御存知だろう。

『幸せとか不幸だとか

 基本的に間違ったコンセプト

 お祝いだ、お葬式だ

 ゆっくり過ごす日曜の朝だ』

間違うというとネガティブな方に捉えられがちだが、今思えばこれはつまり、「間違っていくうちに辿り着けるよ」ということだったんだなと合点がいく。間違っちゃダメだよというよりは、間違っていきなさいねというメッセージだったんだ。この曲の淡々とした曲調をヒカルが好むのは、『ULTRA BLUE』の齎す極彩色な感動の数々の上に描かれた淡色だったからなのだ。当時まだ22歳かそこらですよ。やっぱりヒカルは人生何周目かだよねぇこれ。