無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

おお、ヒカルの名前が出てこない(笑) …久々だな。

音楽も小説のように売ってくれればいいのに、といつも思う。小説に長さの定型は無い。掌編、短編、中編、長編、大長編と様々だ。星新一の掌編小説には1,2ページのものもあるし、中島梓グインサーガは130巻を超える(何ページあるんだろうね)。兎に角、内容次第で長さはどうとでもなる。

そして基本的に、書籍は長さ(文字数だわな)に応じてお値段が変わる。200ページの文庫本と400ページの文庫本を同じ値段で売っている訳ではない。薄ければ安く、分厚ければ高くなる。到って自然。

音楽も同じようにすればよかったのに、どうにも「長さ」(こちらの場合は“演奏時間”だな)を定型化してしかも同じ値段で売ろうとしてきた。シングルとアルバムに大別されていて前者が1000円で後者が3000円で…っていう風に。どうにも自由度が低かったのだ。

読書好きは掌編も短編も中編も長編も読む。大長編までいくと覚悟が必要だけど、逆に言えば長さなんて関係ないのだ。そんなものは内容に付随して変化する二の次要素に過ぎない。なのに音楽の方は、長さをかなり狭めてきた。特に商業邦楽勢は4,5分の曲が12曲程集まって1時間程度のアルバムを形成して、という定型が大勢を占めた。自由度が低かったのだ。

…本当は、ここで「それも今は昔」と言える筈だったのだ。ダウンロード販売でバラ売りが可能になり、ストリーミングで好きなプレイリストを自由に組めるようになった今、1曲の長さもアルバムの曲数も好き放題できるようになっている筈なのに…どうしてもまだまだ小説のような自由さは生まれてきていない。うぅむ。

勿論、いちばんの原因はリスナーにある。昔ながらのフォーマットに慣れきってしまって最早疑問を抱かない。しかしそのせいでもっと豊かになれる筈の音楽鑑賞生活の幅を狭めてしまってはいないだろうか。掌編小説のようにサクッと終わる歌もあれば、大長編小説のように何時間も、いや何年も格闘しなくてはいけない歌もあったりしたらもっと楽しいだろうに…。

それを考えるとクラシックの作曲家は今の商業邦楽勢に較べてなんと自由だった事か。1分程度の小品から何時間もかかる受難曲まで。その時代の音楽家だって流行を気にせねば職業として成り立たなかったろうにねぇ。

小説のように自在な長さで色々音楽を楽しめる時代はいつやってくるのやら。もうシングルやらアルバムやらのフォーマットでリリースする必要はないんだ。78分を超える曲だって何の問題もないのよ。

いや勿論、マイナーでいいのであればそういう風に自由に創作している人なんて幾らでもいらっしゃるんだろうけど、それを商業音楽市場のサイズで成し遂げてくれた方がよっぽど風通しがいいじゃない? うぅん、もう10年くらい、様子を見てみるかな。