無意識日記々

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今日から梅雨入り見込みなのね。雨、か。

真夏の通り雨』を聴きながら「やっぱこいつ歌クソうめーな」と悦に入っていてはたと自分がこの歌を純粋にただ娯楽として消費している事に突然気がついた。

悪気も気後れもない。ただ、これが時間かと。聴いた当初はヒカルの母への想いが重過ぎて強過ぎてそれなりに正座して耳を傾けないとという感じだったのだが、今はこうやって片手間に片耳で聞き流しながら歌うめーなとか言って、それこそレモンだってと呟きながらスパークリングをグッと一飲みする手軽さでこの歌に接している。

薄情といえば薄情だ。ヒカルからしたら母を喪った痛手は癒える癒えない以前に既に生身の精神に刻まれた消えない痕・証でしかなく時間と共に風化するようなものではない。依然悲しいし依然虚ろだろう。こちらは、そうではない。思いを馳せる事と実際の感情は別物だ。

楽家は因果な商売だな、と言うこともまたできる。が、極端に言えば感情を笑い飛ばせるようになることもまた救いに成り得る。バッハのフーガだってベートーベンの交響曲だって作った時点では命懸けのシリアスな作品だった筈だが20世紀や21世紀の人間にとってこれらの曲は多くがギャグパートを引き立てる為の道化に過ぎなくなっている。スタンダードになりすぎたから。そうやって感情は音楽になり音楽は日常になり日常は笑顔を生んでいく。

真夏の通り雨』はまだそこまでには行っていない。だがそのうちバッハやベートーベンの作品のように何百年も経ってスタンダードになったりしていたら、その時はギャグとして笑い飛ばされているかもしれない。今自分がこの歌をただの娯楽として消費するようになったと気づいたのはその嚆矢だ。今を生きている特に若いファンは反感を持つかもしれないが、表現活動とはそうやって不完全ながらも物事を前に押し進めていく。ヒカル自身ですらいつかこの歌を笑顔と共に歌うようになるかも、しれないよ。