無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

“お互い、口では何とでも言える。”

裸婦抱く映像商品のヴォーカルの録音は本当に「歌ったまんま」で、寧ろ会場で聴いたサウンドの方がずっとエコーがかかっていたりして高音や長音などが補強されていた印象だ。バックのサウンドはアリーナ級なのにヴォーカルはホールかライブハウスかという具合だが先述の通りミックスが巧妙な為違和感は余り無い。サラウンドコンセプトのお陰かな。

ライブの内容について自分は1ヶ月程書き綴ったので改めて書くことはしない。どちらかというと自分の観た11月7日の歌唱との比較みたいになるかな。

声の伸びや張りといったものは横浜の方がよかったように思う。しかしそこはまだ2日目、まだまだ歌唱自体に余裕があったかというとそこまでではなく、映像商品でみる幕張のヒカルは自分の声で様々なアプローチを行ってチャレンジしている風だ。もっと踏み込んでいえば、映像商品での歌唱の方がヒカルがより楽しそうに歌っているように聞こえる、と。

これは音だけを聴いて感じたことだから顔の表情に影響されてとかではない。なんだろう、声がより根明になった気がする。喋り声のトーンに近くなったというか。

宇多田ヒカルの歌声といえば怨歌の女王とまで歌われた天才藤圭子直系の「明るい歌も悲しく響く」ブルース色満載のトーンだった筈だ。勿論今でもその側面は健在だが、どうだろう、あの楽しそうなMCの喋り声と歌声の落差が昔ほどではなくなっているような? Switchを切り替えていないというか、それこそシームレスに繋がっているように聞こえる。ヒカルの喋り声は、早口でヲタクっぽいと言われる事が多いが、基本どこか楽しそうで朗らかで何より知的なのだが、そのトーンの侭に歌が始まっていくシーンが何度かあった。

これは変化と言っていいのだろうか。復帰後は発声を随分と大胆に改革し、より伸びやかで自然で無理の無い歌い方にシフトしている訳だが、その自然さのお陰で今は喋ることの延長線上で歌えるようになってきているのかもしれない。幕張でのやや疲れて掠れた歌声であっても声色の根明ぶりが伝わってきたので、あれだ、歌うのが楽しいんじゃないか今。ヒカルは。

プロフェッショナルにとって歌うのが楽しいかどうかなんて意味がない。そんなこと言ってる暇があったら元のメロディ通り歌えるように努力しろキーも原曲通り歌えという批判も道理がある。しかし、「歌うのが楽しい」というのは活動全体の指針に大きな影響を与える。直球でいえば、ライブの本数と頻度が増すよねきっと。これは滅茶苦茶大きいと思いませんか。

この推測が妥当かどうかは次のツアーがいつ始まるかにかかっている。ヒカルが昨年ツアーを終えて、「嗚呼、歌うの楽しかった!」と思えていたのなら、ニーズは莫大なのだからまたすぐツアーに挑むだろう。お互い、口では何とでも言える。実際にどうなるか、どうするか。ライブコンサート映像商品を反芻しながらお互いじっくり検討しておくとしましょうや。