無意識日記々

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偏屈爺の卑屈に鬱屈した逃苦笑

先に『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の音声だけを一通り聴いていたのでいざ映像を観てみると如何に編集能力が楽曲の印象に影響を与えるかというのが如実にわかった。理屈ではそうだろうなと思ってはいたが実際に体験してみると体感的定量性が付加される気分。要は余剰な昂揚感。

アップテンポの曲ではこんなに激しく切り替えるんだな~、とか、じっくり聴かせる曲はやっぱりカット割りもじっくり…かと思いきや案外せわしないもんだね、とか、今迄DVDを観ていて余り考えていなかった事も感じられるようになった。それと共に、自分が昔からあまり映像作品を何度も見返してこなかった理由も何となくではあるがわかってきた。「編集がうるさい」からだ。

これは褒め言葉でもある。音楽のみの時に較べてこちらの昂揚感が増量されるのだからそれは映像編集が効果的であることを意味しているのだから。で、自分は音楽に対して純粋主義なので、それは「余計なお世話」であると。

以前ミュージック・ビデオに対しても似たような事を述べた。あれはヒカルの楽曲を素材の一つとして利用した他の誰かの作品なのだ、と。『Prisoner Of Love』のプロモーション・ビデオは「『Prisoner Of Love』のプロモーション・ビデオ」という別の何かであって『Prisoner Of Love』そのものではないのだ。音楽家宇多田ヒカルと映像監督誰々のコラボレーションであるなら最初からそう書けばいい。『EXODUS』のFLUXIMATIONはその点潔かったよね。

『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品は宇多田ヒカルの作品たるライブコンサートをドキュメントとして記録したものである…と素朴に言い切るには余りに編集の力が大き過ぎる。色を塗ったり抜いたり突然スローモーションになったり、なんてそんな派手なことはしていない─だから影響はそれほどでもない、と思いそうだがなんのなんの。ある意味、非常に堅実で洗練された素晴らしい仕事をしてくれている。音声だけでは齎されない、定点カメラだけでは創り出されない感情や感覚が映像と共に鑑賞していると生まれてくる。その手腕は見事なものだ。

だからこそ自分はあまりライブビデオを観てこなかったのだな、とも。これもまた、「宇多田ヒカル×誰々」みたいなコラボレーション・クレジットで触れてみたい作品だったなと。だからこそ、改めて自分は“ライブ・アルバム”という形態が好きなんだと再確認した。今はもうiTunesでヒカルの過去の主要なライブコンサート作品がiPodにダウンロードできるから“擬似ライブ・アルバム”は堪能できる。故に昔ほど声高には叫ばないが、やっぱり音声のみでも『Laughter in the Dark Tour 2018』が欲しかったわ、と言わせてぇな。なんか、勿体ないのよ。

勿論、ネトフリでついでに観るような人たちにとってこれはどこまでも「宇多田ヒカルの作品」でしかないだろう。他に前面に出てる名前無いしな。又吉直樹くらいか。だからこそ、自分のような人間はこんな偏屈で矮小な拘りを捨てずに居たいと思うのでした。