無意識日記々

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歌詞のある音楽

そうそう、ヴィジュアル・イメージの話ね。

歌詞を耳にした時、人の反応は千差万別で。すぐさまアタマに情景が思い浮かぶ人も居れば言ってる意味を考える人も居れば言葉遊びや音遊びに走る人も居る。それぞれだ。

音楽は音だけで独立しているとはいえ、人間は本能的に五感をフルで働かせて対応するように出来ている。聴覚で予兆を察知して視覚で対象を実際に確認するという手順が基本的であるならば、さて人は音楽を聴いた時に何を視覚で捉えようとするだろうか。

通常であれば音の出所、演奏者/歌唱者がその対象になる訳だが今はスピーカーやヘッドホン/イヤホンで音楽を聴く機会の方が多いだろう。テレビで音楽番組を観たりYouTubeでミュージック・ビデオをチェックしたりする時はその画面を見ているだろうが、さて音だけの時はどうか。

その際、視覚を補填するのに歌詞が使われる場合がある。目を瞑って歌詞に耳を傾けているとそこに描かれた情景がありありと浮かんで…想像力に頼るとはいえ、それによって視覚にあたる情報を脳が受け取る。その意味において、だが歌詞のある音楽で視覚を担うのは歌詞である。

そういう態度で音楽を聴いている時人は歌詞を音として認識してはいない。言葉遊びや音遊び、音韻や掛け合わせなどは二の次三の次になっている。もっと言えば歌詞が聴覚上の“音楽”から分離されすらている訳だ。その分離された音楽が感情に訴え掛けて描かれる情景の価値が決まっていく。そういう捉え方をするならば、歌詞のある音楽に映像をつけるのは邪魔であるとすら言えるかもしれない。

抽象的な話ばかりでも仕方がないからヒカルの書く歌詞を具体的な例にとってみていってみたい。次回はそこらへんからだな。とはいえ、その次回が直後とは限らない訳ですが。そろそろパイセン回答編第二弾が来るかもと期待されていますしね。どうなることやら。