無意識日記々

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という訳で『Fantome』&『初恋』の話に移ろう

スタンダード感と感動は別物と認識している。先に挙げた『Letters』のように、斬新さや独自性もまた感銘や感心や感動を与える。心の動きの大きさはまた別なのだ。

『Fantome』と『初恋』の与える感動は桁が外れている。『桜流し』や『真夏の通り雨』に初めて相対した時の身震いするような感銘は最早恐怖に近いものだったし、『初恋』や『誓い』のもつ力強さはそれこそ誰にも真似できない迫力だった。『桜流し』こそ演奏されなかったものの、それらの楽曲を並べた『Laughter in the Dark Tour 2018』後半の凄まじさは映像商品で知られる事となったと思う。今迄とは更にまたレベルが、次元が違う。

しかし、それとこれとは別なのだスタンダード感云々という話は。

花束を君に』を初めて聴いた時に、まぁ随分まわりくどいメロディだなと思った。その中からうまく着地点を見つけて纏める手腕は見事なもので、やはり作詞家・作曲家としての経験と知能の違いを感じさせたが、故にもっとこうダイレクトにシンプルにならなかったかと─そうね、今聴いててもそう思う。それがこの曲の個性なのだからこの曲自体は何も悪くないしこの曲があったから『Fantome』はあれだけ認知されたのだしそれに関しては何の文句もないのだが、例えば"前作”で同じ立場(アルバムの切り込み隊長)だった『Goodbye Happiness』が過去最高クラスのスタンダード感を出していた事を思い出すと、回された役割に照らし合わせたら少し物足りなかったかなと。

真夏の通り雨』の方は、特に歌詞で見せた「日本語の歌全体としの新境地」が凄まじ過ぎてもうこの曲はそれだけで平伏するしかないのだが、メロディ自体はいわば"指癖"で、それさえもこの曲の凄味の為には必要な事だったのだが、だからこそこの曲は通好みには成り得てもスタンダード・ナンバーとはちと違うなと。

そうなるとまず。『Fantome』でスタンダード感を出していた曲といえば『桜流し』、そして『道』かなと。アルバムの最初と最後。『桜流し』の「もうどこも変えたくない』感は異常で、個人的には未だにテレビエディットに恨みを持っているのだがそれは置くとしても、あれですよ、曲が重すぎる。どれだけスタンダード感を出していてもこういう曲調を"Pops"と呼ぶのには抵抗がある。大好きだからこそ余計そう思うんだわ。

『道』の方は歌詞もメロディも文句なしなんだが、贅沢を言わせて貰えればイントロが弱いのよね。今はもう条件反射的にこの出だしが耳に入った時点で上機嫌になるのだけど、今迄のアルバムの1曲目を考えると結構地味な感じがする。まぁ、ホントただの贅沢なんだけどスタンダード感を考えた時にこの地味さは結構効いてくると思う。

繰り返しになるが、だからといってアルバムから与えられる感動が少なくなる訳ではない。もうひたすら単純に「スタンダード・ナンバーっぽさ」即ちスタンダード感の観点から見た場合はこういう感想になるよというだけの話なのだ。『Fantome』はそれまでのアルバム以上によく聴いた。それだけに落ち着いて眺めた時にそういう見方も出来るなと思っただけなのですよ。惚れ込んだ感情に微塵の変化も無いのです。