無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

漸くNetflixの英語訳のお話

ヒカルの英語の歌の楽しみ方を身につける為にはまず日本語の歌の英語訳から入るのも悪くない。という訳で漸くNetflixの英語訳字幕の話をし始めようかなと。

「日本語の歌の英語訳」の何がいいって、既に何を歌っているか知っている事だ。日本語をほぼそのまま英語に訳しただけだから特に新しい情報が介入する余地はなくただひたすらに「この意味の日本語はこの書き方の英語になるのか」という納得を繰り返していくだけで済む。非常にわかりやすい。

そこで大事になってくるのが訳者の仕事ぶりだが御存知のように今回のNetflixの英語訳字幕は宇多田ヒカル自らが手掛けたものだ。20曲の翻訳を書き下ろすのは中々に大変な作業だろうが、ベースになっているのはヒカルが昨年のツアー中に英語圏の人たちばかりだったバンドメンバーに配った英語訳の歌詞。全編ほぼ日本語のセットリストの歌の歌詞の意味を把握した上で演奏して欲しいという意図でその時に書き下ろされたものだ。それより以前のツアーでも英語圏のメンバーはいたことがあるのでその際にもし同じように英語訳を書いていたとすればそういう昔の曲に関しては昨年の時点で既に流用だったかもしれないけれど。兎も角、Netflixの為にまるごと書き下ろしたのとは少し違うことから、ヒカルも対応可能な仕事量だったのだと思われる。もっとも、画面の字幕に出す文章にする為の変更は加えたろうし、それは結構な労力だとは思うが。

その前提に立ってみるときに留意すべきなのは、様々な条件や制約をもって生まれてきている日本語の歌詞を、そもそも歌の内容を知らない人に伝える為に書き下ろされたということは、非常に単純に歌詞の意味をそのままストレートに伝える訳詞になっている可能性が高いという点だ。歌詞の持つ条件や制約というのは、メロディの尺に合わせるとか音韻を踏むとか感情表現の為の母音の選択とかそういった要素だ。英語訳を書くにあたってそういった要素に起因する歌詞の選択結果はそもそも捨象されていると捉えるのが妥当だろう。

従って、英語訳を見ていくというのはかなりシンプルでストレートな作業になるのではないかという予測が立つのだが…果たして実際はどうなのか。少しずつのんびり見ていくことに致しましょうか。