無意識日記々

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「なる」と「する」⑩

このタイトルの許では「自然さ(spontaneousness)」と「人工(artificiallity)」について触れている。特に、ヒカルの創作動機と創作手法の両面に渡ってその二つがどう拮抗しているかをみてきている。

その視点にたつとどうしても母の話ばかりになる。幼少の頃のヒカルは母から「この子は天才なのよ」と期待をかけられ一方で「嫌になったらいつでもやめていいからね」とも言われて育ってきた。故に、非常に自然に音楽に、創作に取り組んでこられた。『First Love』を語るときにその自然体は必ずと言っていいほど話題になる。あれだけ売れたのにギラついた感じが全く無く正直だ。クォリティに自信はあったろうが、それにしてもわざとらしさや力みがない。サウンドは同時代的であったが本人の志向は"どこ吹く風("anyway the wind blows")だった。「真夜中の王国」にCubic Uとして出演した時に「CD沢山売りたいっすね」と言えたのは、そういう呪縛からある程度自由だったからだろう。

それは、デビュー後も一貫している。「うたばん」で「お金ならあるわよ?」と言い放てたのも、自身をある程度客観視して冷静に状況を把握出来ていたからだ。そのニュートラルさとフラットさから始まる歴史は、しかし、我々の与り知らないところで母の症状との葛藤を常に孕んでいたのだ。

後付けであれやこれやと言う事は出来るだろう。謂わばヒカルはその点を悟らせずにやってこれていたのだとも言える。前回触れた通り歌詞にあからさまに母が出てくるのは『ぼくはくま』であったり『嵐の女神』であったりだ。そこから人間活動に入ってその矢先、というタイミングが話の不透明さを増している。ここを整理して見直してみる必要があるだろうな。