無意識日記々

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14年前の日記の続きその3

「聖域(Sanctuary)」での時間のありようは独特だ。どうしても「球形」という形容を使いたくなる等方性の感覚。

時間の流れというのは非対称的だ。過去はひとつに決まっていて確固たるもの、未来は未定であやふやなもの。そのイメージから抜け出すのはなかなかに困難だ。だが『Passion』と『Sanctuary』はそこから抜け出る術を教えてくれる。

『after the battle』の構成は、その神秘的な感覚を抽出した前半とそこから躍動感溢れる時間の流れが生まれる後半とで成り立っている。そこを繋ぐのがpassion flowerたるトケイソウの模様「時計」だ。

考えてみれば「時計」はとても不思議なものだ。それ自体は別に何も流れていない。同じところを同じように延々ぐるぐると回っているだけ。それはアナログ時計でもデジタル時計でも砂時計でも日時計でも変わらない。言うなればただの「振動」に過ぎない。

だが、我々はそれを見て冒頭で触れたように不可逆な、次々と未来が今を通して過去として固定化されていく“流れ”を感じ取る。それは時計のありようからは随分と離れたものだ。行ったっきり帰ってこない「振動」とは対局にある何か。

そのイメージのズレを、『Passion』と『Sanctuary』は埋めてくれているように思う。もしかしたら“時間の流れ”というのは、物理的に厳然と存在するというよりは、我々が『聖域』を感じながら「時計」を手にした瞬間に生まれ出でるものなのではないかと。

つまり、時の流れが先にあって我々がそれを時計を通して感じているのではなく、時計が先にあって我々の聖域と反応することで後から時間の流れが生まれてくるのではないかと。その見地に立った時に漸くヒカルの「今の22歳の私には12歳の私も42歳の私も共に在る」という発言の感覚の一端にふれれた気がした。

勿論、総てではない。ヒカルの感覚は宇宙から音楽を取り出せる超常的と言っていいものなのだからおいそれと理解したと言い放てるものではない。しかし、その表現物を通せばこうやってちいさなきづきを積み重ねていくことができる。僕らに対するお裾分けの蓄積である。それを知れれば、怖かったものも怖くなくなる…まではいかなくとも、その怖さの在り処を知る事くらいは出来るようになるかもしれない。そしてそれは、途轍もなく大きな事で、だから歌は振動を化身として球体の真ん中から僕らの誰に対しても響いてくるのだ。それは音すら超えた何かであって、やっぱり最初と最後は光なんだなと。そして時は流れ出すのだ。