無意識日記々

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少年老い易く音楽も又成り難し

さてもう一方のリークの方はどうなったのかな。井上陽水トリビュートが11月27日発売でもう一方の方は11月13日発売。2週間も早いんだけど発表はそっちの方が後なんだねぇ。発売日前ラスト一週のブーストの為に発表をとってあるとかなんかな。だったら暫く触れない方がいいか。

じゃあ前回の続き。ヒカルの「正式音源」の感覚について更に考えてみる。

何十回も話題に出しているが、スマートフォンが主流になったこの十年、音声だけのコンテンツは物足りなくなった。動画があるのが当たり前になったもんね。あとは来年5Gが始まってやがて料金が下がっていけばもっと動画が親しみ易くなる。音声のみはもう…と思いがちだ。

そんな中ヒカルはやはり「音声のみのトラック」をこそ正式な作品として捉えるという古風な感性を見せてくれている訳だ。著作権の取扱も念頭にあるのだろうけど、実際今やCDアルバムの売上よりライブコンサートDVD/blu-rayの売上の方が大きいんだし時代は完全に映り変わっている訳だがヒカルは依然“こっち側”なのだ。となると、暫くはまだまだCDを出してくれそうだね。でないと「作品が形になった気がしない」んじゃないかなヒカルは。

手に取る/手に取れるかどうかというより、“手に取った記憶”の影響が大きいのだろう。「音」というのは本来その鳴る出処を探る手掛かりだ。裏を返せば、どこが鳴っているか、何が鳴っているかを確認しできないと人は納得しない。フィジカルを手に取ると、曲がりなりにも「そこから音が出ている」と思えるようになる。これが存外大きいのだ。

ストリーミング・サービスの場合まさに文字通り音が流れていくので、自分で選んで聴き始めてもそれはどちらかというとCDを買うのよりラジオで新しい曲に出会うのに近い感覚だ。なんというかずっとラジオ。まぁそれが楽しいんだけど。

それとは対極的にヒカルは「少年時代」を歌うことで正式音源としての手応えをリスナーに与えてくれると暗に示している……とまで読んでしまうと行き過ぎだろうかな。我々年寄りのノスタルジーは、ヒカルがこの歌を歌った2003年と、陽水がこの歌を発表した1990年を行き来してこの2019年の音源に辿り着く。年号で言えば平成2年と平成15年と令和元年がひと連なりに繋がるのだ。産まれたばかりの赤子が13歳の少年になり、その時生まれた赤子は16歳の少年になっている。それくらいの時を経た後に宇多田ヒカルが歌う「少年時代」が自分のようなこの29年の時代と音楽を知っているような年代の人間にどう響くのか、楽しみのようなちょっぴり怖いような。どれくらいの感傷を味わわせてくれるのだろうか。解禁日がやっぱり待ち遠しい。まだ発売日まで4週間あるんだもんねぇ。痺れを切らしそうな気がしてますよ。