無意識日記々

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際どい崖っ縁

縁(ふち)や際(きわ)をどう狙うかが次のテーマかな、と思っている。

例えばファン層の話。20年もやってて次から次へと新しい或いは若いファンがやってくるのはプロモーション体系からすれば脅威的なので特に何も改善する必要は無いとは思うが、「宇多田ヒカルのファンになるかならないかの境界線って何なんだろう?」とふと思う事がある。勿論誰かを信奉するなんて稀少な出来事で個々の資質次第と断じてそれまででもよいのだが、中には「もしかしたらファンになるかもしれないしならないかもしれない」みたいな人居ないのかなぁと。ヒカルの魅力は気づくか気づかないかの違いだけなのかと。

それでよく夢想するのが「たとえばフェスに出てみたら」だ。フェスこそ縁や際を知れる場所。あのバンドのファンならこのバンドも好きになるかもしれない、という境界線が顕現する現場である。そこでヒカルが登場したとして、だれのファンなら食えるのか。これがさっぱり思い浮かばない。裏を返せばヒカルはやっぱりフェスに出る旨味がないのかなと。ヒカルは縁を持たないのか。

ファン層から一旦離れて、音楽性はどうか。どういった音楽までなら奏でられるのかというリミットもまたよくわからない。ワルツの曲は書かないし(せいぜい『誓い』くらいしかない)デスメタルを歌う気配もない。やらない事は沢山ある。でもだからと言ってそれで何か制限ついているという感触もない。ここを踏み越えたら宇多田ヒカル的にはナシだ、みたいなものが見えてこない。『Passion』はJ-popミュージックとしてはギリギリアウトだったかもわからないがそれは別に宇多田ヒカル的にアウトだった訳では無い。ヒカルに「これはないわ」と言わせるジャンルはなかなか無いなぁ、と。

そういう意味では結局カテゴリーやジャンルやコミュニティにつくづく靡かない人なんなだといういつもの結論にしかならないが、ここで何か無意識裏に避けてきているものは無いかとちょっと探ってみたくなったのだ。もっと言えば、気づいていないタブーを見つけて破る姿を見てみたい、と。ヒカルにとっての縁と際はそこにあるんじゃないかと期待してみたい。次の新曲は久々に冒険してみてるんじゃあないだろうか。『Passion』のように商業的には芳しくない結果もたまには見てみたいというかそろそろアウトを見極めに参りませんかというか。願望と妄想でしかないが、2019年暮れの冬の入口はそんな感じなのです。