無意識日記々

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日本語民はサビが英語でも気にしない

ヒカルが同じ曲で日本語詞バージョンと英語バージョンの2つを書く際、単に歌詞だけを弄るのではないのは御存知の通り。『光』と『Simple And Clean』ではサビのメロディが異なるし、『誓い』と『Don't Think Twice』でも幾つかメロディ自体が異なるパートがあった。言葉自体、歌詞自体の価値を重く見て音楽の方を折れさせるのだから大したもんだわ。

一方で勿論そうしなくてよかった曲もある。『Passion』と『Sanctuary』は大体同じ歌メロだし、『Face My Fears』もまた基本的には歌詞を取り替えただけだった。つまり、英語曲と日本語曲を作る時に必ずそれぞれに独自色を出そうとしたりしている訳ではなく、単によりクォリティーの高いテイクを求める中で音楽の変更も視野に入っているという事だ。

と、いうだけならまぁいいんだけど、ややこしいポイントが一点ある。『Face My Fears』には『Japanese Version』と『English Version』がある訳だが、いずれもサビが

『Let me face, let me face, let me face my fears』

と英語なのである。わざわざ『日本語バージョン』と銘打っている方も。これをどう受け止めるべきか。

つまり、ヒカルからしたら、サビに英語のリフレインを入れるのは日本語の歌であるということだ。何を言っているのかわからねーと思うが以下略。もっと踏み込んで言えば、ここを英語のままにしたから『Face My Fears』は『Japanese Version』と『English Version』でサビのメロディを変える必要がなかったのだとも言える。裏を返せば、もし『Japanese Version』の方でサビを日本語にしようと拘っていたら、全く異なるメロディになっていたのかもわからない。

サビメロはその曲の生命線だろう、と思うのだが、『光』と『Simple And Clean』でそれを実践してしまっている。ただ、この2曲はタイトルが違う。別の曲というニュアンスもある訳だ。だから『Face My Fears』も日本語のサビに拘ってメロディを変えて日本語詞を載せていたらタイトルを『Face My Fears』でない何かに変えていたかもわからない。すぐ傍に『Don't Think Twice』と『誓い』の例もあるしね。

結局、日本人リスナーは『Let me face, let me face, let me face my fears』の一節が入っていてもそれを日本語曲だと認識できるものなのだ。慣れと言っていいのかな。

こんな話は気にしなければそれで何の問題もない。わざわざ『Japanese Version』と『English Version』というクレジットを入れてあるから難癖をつけられるというだけで、「『Face My Fears』には歌詞違いバージョンがある」とだけ言っておけばそれでOKな話なのだった。ここで見えるのは、ヒカルにとっても、そして勿論我々にとっても、サビのリフレインが英語だとしても特に気にする事無く日本語曲として認識できる文化的土壌が今もってここに存在しているという点だ。それは取り敢えず踏まえておいた方がいいのかもしれないな。その意識の上に立ってヒカルは英語の歌詞を扱っているのだからね。