無意識日記々

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横たわるフェミニズム

10代の頃のヒカルは女性の社会進出と権利に関する私見を臆面無く述べる傾向にあった。先日触れた『B&C』の「アダ&イブとボニー&グライド」」のエピソードもそうだ。キリスト教全体に対するとまではいかないものの、そこにある女性蔑視観についてハッキリと嫌いと明言していた。

今はそこまで強い言葉は使わない。他方、思いの強さは変わらないどころか、という感じがしている。昨年春頃の「Vagina a reeducation」についてのインスタもそうだし、女性天皇についてのツイートもそうだ。思想的には全く変わらないどころか更に踏み込んでいる。感心するのは、それを受け取る側への配慮だ。英語の書籍について英語でインスタ、とか「驚く」で呟きを締める技法とか、参考になる点がとても多い。

さっき“思想”と言ったが、自分としてはそもそもここから違和感がある。所謂フェミニズムと呼ばれるものは他の思想達と相対化して並べるようなものだろうか。男女という性別自体妄想の類、弱い社会の為の導入概念だとしか捉えていない向きとしてはそもそも権利に性別なんてものを適用する事自体が疑問である。だが現状がそうなっていないことも知っている。ヒカルが“語気を強めて”そのような主張をするより他無い事もよくよくわかる。

今のところ、それが作詞にまで影響を及ぼしている例は……ないような気がするな。90年代などは「同世代の女性への応援歌」とかが巷を賑わせていた気がするが、リスナーの性別を選ばない作詞傾向にあるヒカルはそれとは違っていた。『ともだち』も性別明言されてないしなぁ。『Too Proud』は、こういう内容を女性が歌う事自体が主張だと捉えられなくもないがややメタ過ぎるか。

LGBTという言葉ですら使い古されてきた感がある(続くかもしれないしまた新しい言葉が生まれるかもしれないし)昨今今更フェミニズムでもないでしょう、と言いたくなりそうだが現状は国際的にみてもまだまだなのだろう。そのうち歌詞のテーマとしても取り上げられるかもしれない。その時に慌てふためかぬよう、しっかりヒカルの考え方をフォローしておくようにしとくわぃ。