無意識日記々

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ヘッドフォンで生まれる文学

ふぉぉ、DREAM THEATERの来日公演が延期に。ウィルス禍にまたも苛まれるの巻。他のアーティストの公演も不透明だなこりゃ。

そんな状況下、ここぞとばかりに「家でゆっくり音楽を聴こうね」と方々からオススメされているが田舎育ちで元々そうそうライブコンサートに行ける境遇ではなかった私にとってはなんというかそれが普通です。

『For You』でヘッドフォンをして人混みの中に隠れ、『Forevermore』で人が溢れる大通りを避けて壊れたイヤホンで耳を塞いでいたヒカルさん。あの、そこに居ながらにして別世界を旅しているような感覚は音楽ならではと言いますか。

昔はヘッドフォンやイヤホンなんてなかった訳で、こういう、頭の中で音楽が響いたり、体の芯に他人の声が溢れてきたりという身体感覚もまた新しいものだ。人類にとってまだ新しいチャンネルなのだといえる。

それは、内面世界と外部刺激のリンクであり、それはそれまで恐らく「本を読む」ことで得られていた感覚に近い。文字を追って物語を体験するには、ひとつひとつの言葉、言語、単語の意味を知っていなければならない。そして、意味は常に我々の頭の中にしかない。文字はそれではないからだ。我々は本を読むことで内面世界に物語を生んでいく。言葉語りを走らせていく。

ヘッドフォンやイヤホンで音楽を聴く時、それは確かに意味を自分の中から生んでいくのとは異なるのだが、その内側から生まれてくる感覚とのリンク具合と、宇多田ヒカルの歌詞世界というのは酷く相性がいいのではないだろうか。

ヒカル自身、布団を被ってMDに鼻歌を録音して作曲をしたりしたこともあるし、勿論本好きだし、なんだろう、部屋でひとりでヘッドフォンやイヤホンをして聴く時の為の歌詞、街中でも別世界に飛べるような歌詞をそこに込めていたのではないかという言い方も出来るのではないかと。確かに、1万人入るアリーナでコンサートをしても、どこかお客さんも「みんなで楽しむ」というよりは、「宇多田ヒカルとの1対1」を味わいに行っているところがあって、それは、そもそも自分の内面世界の物語と歌の歌詞が強くリンクしているからではないかと。コンサート会場でですら、我々は「読書」をしているのではないかと。まぁ、そういう比喩を使うなら、作者本人直々による“朗読会”ってことになる、かな? かなり、こじつけだけどね。

それが本来の、そもそもの“文学性”というものであるから、ヒカルの歌詞がそういった風合いを纏うのは自然なことだ。それをイヤホンやヘッドフォンといったこの一世紀の近代用具を通して実践しているのだと思えば、我々はまだまだ人類認識変革の只中を進んでいるのだなと思わざるを得ない。宇多田ヒカルはその最前線に陣取るひとりなのだろう。──なんだか大袈裟になっちゃったな。ま、いいか。