無意識日記々

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歌に変わらない強さ持たせてる

唐突にこっちを向いて宇多田ヒカルとして歌う場面がある─とはいえ、不自然にならないような工夫はしっかり施されている。

『Wait & See 〜リスク〜』の場合、

『キーが高すぎるなら下げてもいいよ』

の前段はこの歌詞だ。

『どこか遠くへ

 逃げたら楽になるのかな

 そんなわけないよね

 どこにいたって私は私なんだから』

この『なるのかな』が絶妙でねぇ。自問自答してるような、リスナーに語り掛けてきているようなどちらともとれるラインの言葉の選び方をしている。『そんなわけないよね』も、自分自身でひとりで納得しているような、こちらに同意を求めているような“I know/you know”な感触。そしてこの歌の結論である『どこにいたって私は私』に辿り着く。

そう、結論。この歌は、オーソドックスな感覚でいえば本来ここで終わりなのだ。そこからキーを変えて加速していくエンディングが加わる事でユニークネスを主張している。そこに例の歌詞『キーが高すぎるなら下げてもいいよ』が来る。『どこにいたって私は私』という結論に辿り着くことで聴き手側の歌への没入感は最高潮に達し、故に歌への集中力はそこから落ちていきかねない。その落ちる間際に狙い澄ましたかのように『キーが高すぎるなら……』を放り込んでくるんだよね。うまい構成だわ全く。

オープニング・ナンバーで古畑任三郎方式をとりがちなのも、この、“聴き手の集中力”に配慮する結果であろう。まずは歌い手側から話し掛けて惹き付ける。自分のフィールドに引き込めさえしてしまえれば魅了できる自信はあるのだ。一曲目で「おっ?」と一瞬でも思って貰えればそのまま耳を欹ててくれる確率も高くなる。大事なことよ。

この楽曲全体の流れがあって初めて古畑任三郎方式は成立する。流れをぶった切って突然放り込んでいる訳ではない。流れを損なわずその上でいきなり感を演出する。一見矛盾する効果を見事に実現できているのは、歌詞が細部まで全体の構成を参照しながら丁寧に作り込まれているからだ。当時16〜17歳。流石ですわね。まぁ、ヒカルなら当然のクォリティですけどっ。