無意識日記々

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憧れ:前提と感覚の自由自在

先月(3月18日)発表になったデンマークオルタナトリオDIZZY MIZZ LIZZYの4枚目のスタジオ・アルバム「ALTER ECHO」がやっぱり凄い。詳細は省くが、そもそもアルバム・タイトル名を耳にした瞬間に「今回は違う」と思ったし、実際にアルバムの曲を聴いたら鳴った瞬間に「嗚呼っ!」となった。相変わらずアルバム全体でフックのあるメロディは極一部にしかなく印象の薄いパートがダラダラ続くのだが、今までにないスラッジ的なヘヴィネスがギターオリエンテッドサウンドの中に……いかんいかん、詳細を省くつもりがついつい語り始めてしまった。どうしても語りたくなる作品、現れた瞬間に名作が確定している作品。そう言いたかっただけですのよ。

こういう、“現れた瞬間に確信する体験”を私は勝手に「普遍性の感覚」と呼んでいる。名前を見た瞬間、アートワークを見た瞬間、鳴らし始めた瞬間に心に確信が表れるあの感覚は筆舌に尽くし難い。音楽って、作品って全部を隅々まで味わう必要はなく、そこに普遍性があればあるほど、普遍性が高ければ高いほど、ほんの僅かな端緒に触れただけでその存在を肯定して受容することができるのだなと。なんとも、不思議な感覚である。

最近のヒカルの作品でそういうものがあったかな、と問題設定をするや否や『Face My Fears』が思い浮かんだ。目下いちばん新しい作品だ。この曲を聴いた時「そういえばここが空いてた!」というような謎な感想を書いた筈だ。宇多田ヒカルの楽曲群地図を描いた時、ふと気がつけばそこにぽっかり穴が空いていて、『Face My Fears』はちょうどそこに収まる感じだった。あれだよ、暫く行方不明になっていたジグソーパズルのピースがソファの隙間から見つかってそれを嵌めた時の感覚。「こんな所にあったのか、よかった」と。

とはいえ、『Face My Fears』を実際に聴くまでは、そんな所に穴が空いていただなんて全く気が付いていなかった。即ち、「ヒカルの今までの音楽性の地図を考えたら、こういう曲がここにあってもいいはず」とか何とか事前に考えていた訳では全く無く、何の意識もない所に突然“解答”が現れて、そのお陰でそこに問題があった事に気がついた─そんな順番だ。上述した「ALTER ECHO」もそんな感じだった。ピースがあるべきところに悉く自然に収まっている。然るべき場所に然るべき音がある。それを後から一瞬で知る。私はそこに普遍性をみる。

さて、では『Face My Fears』はその意味で普遍的な作品と言えるのだろうか? ここを考察するのに私は分不相応だ。というのも、予めヒカルの音楽性を知り過ぎているからね。今までの曲が頭に入っていたからそこに穴があったと気がつけただけで、もし知らなかったならどういう感覚だったのか、なかなか想像がつかないのだ。厳しい言い方をすれば、過去の楽曲群の存在のお陰で『Face My Fears』に普遍性に“似た”感覚を覚えただけに過ぎない、とも言い切る事も出来るのである。

そこを、知りたい。だが、そういう事について語れる人間が宇多田ヒカルの過去を知らない確率は限りなく低いだろう。いや、居るかもしれないが、あたしじゃ出逢いづれぇ。自分には無理としか思えない。自分が欲張り過ぎているのはわかり切ってはいるのだが、前提と感覚の自由自在は音楽鑑賞家にとって憧れなのだ。総てを忘れて目の前の歌に没頭出来ればいいのになと。

まぁそもそも、宇多田ヒカルと同時代を生きていて毎回のツアーで生歌唱を体験出来ている時点で最高に贅沢なのだから何をか況やなのだが、そんな所に居れている幸運に依拠して生きているのならどうせならそこから更なる贅沢を生み出せるかどうかを試したい。このあといつヒカルの新曲が聴けるかはわからない状況だが、出来る限りの贅を尽くして味わう所存で御座いますよ。どんなフルコース料理より極上に美味なのだからね。