無意識日記々

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Does Time fly, or pass slowly?

昨年ヒカルが『少年時代』を歌う時の感情は多層的であった。元々、井上陽水の「少年時代」自体がまず、大人が少年の頃の追憶を歌った歌だ。リリース当時陽水は42歳かな。大人が思い出の郷愁を振り返る歌だった。

ところがヒカルが初めてこの曲をカバーしたのは2003年の誕生日。20歳になりたての瞬間だった。ややもするとまだあんた少年やんか、いや少女やんかという年代で追憶を歌う事自体に稀有があった。年齢も性別も面白みを秘めていたのだ。

昨年のヒカルは、その事を思い出しつつ、更にその上で36歳の大人として確りと楽曲の追憶を追認して歌っている。陽水がオリジナルを歌った頃に近い年齢で。

それはそれで収まりはいいのだが、ヒカルはそれだけではとどまらない。更にそこに、幼き我が子の目線を見る。母として、幼年期を清々しく送る子を見てまた「少年時代」に還元していくのもヒカルならではだろう。

つまりヒカルは、20歳の女性として少年時代の追憶を歌った自分を参照しつつ、大人として井上陽水と近い目線で立ちながら、我が子が見ている世界も視野に入れているという多層構造の中でこの歌を歌ったのだ。ややこしい!

さて、これが『Time』に還元されるとなると、もっと超越的な視点に立つ事になるだろう。結局のところ、追憶や郷愁とは何なのか。そこをシンプルに突き詰めて整理することが必要なんじゃないかと。

この多層構造は「背を見ている」から起こるものだ。誰かが誰かの背を見て感情を喚起する。その連鎖が多層と複雑を呼び起こす。これがそもそも最初にその誰かと見つめ合っていればこんなことにはならなかった。「見つめ合う二人、止まる時間。」である。裏を返せば、人の背を見る事で時間は動き、幅を持ち、あらゆる方向に奥行きを孕める。その風景が追憶と郷愁であるならば、つまり追憶と郷愁は風景そのものなのだ。空間のみならず、時間も含めた時空の中で、での。そして、それは風景であり情景である以上、歌い手は外側からそれを見定め続ける。これは主役ではない。

「美食探偵 明智五郎」は、第一巻を読む限りまだ視座が安定していない。通常であれば小芝風花演じる小林苺の「それなりに常識人」な感性に共感しながらエキセントリックな明智とマリアの奇行を評価していくのが順当だと思うが、マリアから見た屈折した恋物語としても機能しそうだし、明智目線で苺を愛でるのもよさそうだ。そこらへんはドラマの演出班の皆さんに期待するとして、再び『Time』が誰の目線から描かれているかを推理しなくてはいけない。「超越的視座」もアリなのだ。どの登場人物でもない目線。それぞれの人の背中を追うことで時間が流れ始める。そしてここから眺める風景は、手に入らない。それにこちらが関わることでそれは風景ではなくなるからだ。時間とは関わり合いである。"時関"と書き換えてもいいとすら思う。見ているヤカンは沸かない。"A watched pod never boils"なのだ。

背を見て流れ目を見て止める。それが時間であるならば、ヒカルの描いた『Time』は誰と誰が見つめ合っているかが鍵となるだろう。ディナータイムに目を配るのは窓の外に広がる風景なのか、はたまた正面の席に座る誰かなのか。ドラマ放映&『Time』初披露まであと3日。妄想できる時間も残り僅かでございます。