無意識日記々

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時代の帳尻合わせを睨むメ。

「画竜点睛を欠く」という表現を用いたが、元になった故事によると、本当に目を描いてしまうと龍が絵から飛び出して具現化してしまうから敢えて描かなかったんだとか。ふむ。ヒカルの曲にもそゆとこあるかも。ああやって邪魔しないと本格的になりすぎてとっつきづらくなるおそれがあるってことね。

「Popさ」というのは結構難しい概念で、なぜかどこかで「バカになる」必要がある。度を越した明快さこそがPopでキャッチーだからだ。ヒカルの場合、どこまでも知性を譲らないから放っておくと音楽がどんどん本格的になってPopから離れていく。ヒカルにとって「Popさ」とは身についた習性ではなく、常に意識して自分に修正を施すよう言い聞かせ続けなければならない一種の外挿要素なのだ。どこかで「バカになれ」と自分に言い聞かせるのだろうな。

そこの手助けをあのピコピコシンセが担っているとするならばぐっちょぶと言わざるを得ない。ヒカルがついついPopさを忘れる場面でもああやってフォローを入れているのかもしれない。そこのところを買ってヒカルはなりくんに声を掛けているのかもわからないな。いやあのシンセが彼の仕業と決まった訳ではないのだけどね。でも『Time』でも似たような事やってたし、何しろあたしのヒカル原理主義センサーが反応したからには結構確度が高いと思っている。推測は推測に過ぎないのだけれど。

こと日本においては「Popさ」というのは世代を隔てると通じなくなる概念になっている。ヒット曲でいえば一昨年は米津玄師とか、昨年はOfficial髭男dismとかそういうのがあったけど、いい曲だから売れたという感じはあるのだがPopな雰囲気は少ない。もっと言えば狙って作った感じがしない。というのも、これが今や世代間で異なるニュアンスになっているのだけど、現代の日本には「売れ線」のサウンドが存在しないのだよね。

うちらともうひとつ下の世代(大体ヒカルと同じくらいの歳の人達)までは、「狙って作った」とか「売れ線」と言った時にどこか共通してイメージできるサウンドがあった。例を出して言えば広瀬香美みたいなああいうの。「あ、売れるのを狙って曲を書いてるな」っていう。ポルノグラフィティとかORANGERANGEとか…それくらいまでが限界かなぁ。SEKAI NO OWARIの世代まで来るともう無いよね。あんだけ売れても売れ線て感じじゃなかった。それがおっさんの感覚なのですよ、えぇ。

それは、宇多田ヒカルにすら影響を及ぼす事でね。『Time』のようなわかりやすい魅力を持った曲ですら「売れ線狙いのPopな曲調」にならない。そもそもそんな共有共通概念が今の市場に存在しないから。アイドルだけは別な気がするけど、ヒカルはあの界隈には近寄れないからなぁ。

しかし、この、なりくんとのコラボを聴いてると、新世代の売れ線への模索が始まっている気がする。なりくんの普段の言動からすれば「俺の音を気に入らないヤツらの相手をしてる暇はない。俺のことがわかる市場に出向くのみ。」みたいな事を考えてて、音作りも最先端のセンスを発揮しつつも唯我独尊みたいなイメージ作っちゃってるけど、彼がこのまま成長すれば新しい時代の「売れる曲」像が出来上がってくるんじゃないかなと、『Time』と『誰にも言わない』のピコピコ・サウンドを聴きながら思ったのでありましたとさ。逆説的だけどねああいう反骨心の強い若者が主流派になっちゃうって予想は。彼のこと、音楽家としては期待してるんだぜ。そう言ってる俺は相変わらず彼にブロックされてんだけどね☆