無意識日記々

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ジェンダー像は自演だぞの巻

宇多田ヒカルの歌詞のジェンダー論を語るにあたって難しいのは、そもそもの歌詞全体がジェンダーフリーな世界観に基づいている点だ。それは、出来上がった歌詞を聞き取る・読み取る段階は勿論のこと、創作過程において既に性別を自在に操る・解き放っているという点が大きい。

その昔もりあ亭のもりあてさんが「『First Love』の恋人像は父親なんじゃないか」と(こう短く纏めると随分乱暴だな)鋭い指摘をしていた事があった。冒頭の小道具がタバコだったりしたからね。既にこの時点で父親と(元)恋人の入換、或いは置換といった方がいいかな、属性を分離して登場人物像を構築する手法が試みられている。『First Love』でいうなら、『明日の今頃にはあなたはどこにいるんだろう』の一節などは寧ろ母親を思って書いているとも思えるし、だとするとこれなどはただの置換ではなく性別転換も含まれている。

斯様に、ヒカルの歌詞においては、幾つかの素材を置換・転換・混合する事によって独自の人物像の構築が為されている。

それが最もあからさまになったのが最近作『初恋』であって、インタビューでヒカルは「私は初恋をしていない」「強いて言うなら両親」とアルバムタイトル自体がある意味“捏造”であると示唆して歌詞が実話を素材にして構築した物語であると吐露している。

本来、ステレオタイプな先入観を挿入すれば、『初恋』なんてタイトルの曲やアルバムを女性シンガーソングライターが制作するとなったら実体験に基づいたものだろうとなどと捉えてしまいがちだが、ヒカルはそういうことはしなかった。出来なかったともいえるけど。

他方、もっと挑戦的な見方も出来る。そもそも恋愛感情の発生とは親子間の感情を源にしているのではないかという発達心理学的なアプローチを歌詞創作の技巧を通じて宇多田ヒカルは体現している、という見方である。歌詞自体が構造として人間心理の発達や変遷と同型であるという、嘗てどこにもみられなかったアプローチ。これがここ5年間の、特に『真夏の通り雨』以降のヒカルの歌詞の突出した点である。

故に、だからこそ最近5年間に、逆にジェンダーを固定するような歌詞も書くようになったとも言えるのだ。『ともだち』や『Time』がそれにあたる。前から述べている通り、これらの歌詞は性別を明言している訳では無いが多くのリスナーがそう受け取るであろうことを想定して構築されている。リスナーの歌詞世界への踏み込み方を予め想定して構成を層状にしておくのは例えば『Easy Breezy』などでも顕著だが、最近はそこをもっと自然にさりげなく行っているようにもみえる。

こういったヒカルの歌詞創作上の変遷や成長を踏まえた上でジェンダー論は語られなければならない。既に総てが解き放たれ解体され再構築された上で現実世界のジェンダー観との擦り合わせが行われている最中なのだ。昨今のLGBTQムーブメント(と書くと怒る人いるだろうなぁ。私もだ。)に煽られて半ば義務感から「性別なんて自由だよね」と言うのとは段階が異なる。一周まわってきた上で現況を具に見極めてくれている、というのが妥当だろう。

こういうのは本人からは口が裂けても言わないだろうから全くの他人である自分みたいな人間が書いておくのが望ましい。的外れだったら迷惑極まりないだけなんだけどなっ。