無意識日記々

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心理とシーンの持ちつ持たれつ

「曲毎に」となると、もしその曲が気に入らなかった場合暫しそのまま離れて次の曲まで待ちだし、気に入ったとしても一頻り聴いた後はやはり次の曲が待ち遠しくなるだろう。勿論、コアなファンは毎日バックカタログを聴いて過ごせているのでそれはそれで全く問題ないのだが、そこまでいかないリスナーはどうするかという事なのだ。

この曲毎アティテュードはヒカルのデビュー時なら素直に機能していた。宇多田ヒカルに拘らずとも他のアーティスト達が常に毎週新曲をリリースしていたからだ。よってリスナーも「Pop Musicに耳を傾ける」というライフスタイルを崩さずに生活を続けられていた。今でも同期のみんな(浜崎あゆみとかaikoとか)は比較的元気だが、だからといって20年前のような活況がある訳では無い。寧ろもうそれぞれがクラスタを作ってそこでのサイクルを完成させている。ファンクラブをはじめとした“囲い込み”クラスタの集合体が現在の市場、シーンであって、過激な言い方をすれば、宗教を信じたり政党を支持したりするノリでアーティストを応援するのがメインストリームになっているような。

そういったシーンにおいても宇多田ヒカルというネームバリューは凄まじく、新譜を出せばCDだけで何十万枚というスケールになるのだが、余りにも単発だ。暫くはこのまま行けるだろうが、閉じたクラスタの寄せ集めとなった市場ではヒカルの歌はなかなか支持されなくなっていくだろう。ヒカルのクラスタってのがあやふやだからね。ファンクラブがないから。まぁ、昔からのリスナーはそうそう離れないだろうから漸減というムードだろうけど。

昔述べたように、本来ならヒカルのアウトプットがない時期はレーベルメイトが入れ替わりで前線に立ってくれればいいのだが、こちらの方は依然なかなかうまく回ってくれていない。

そんなだから、ヒカルからのアウトプットのない時期のファンの関心は本当にバラけまくっている。音楽を聴いていればまだいい方で(聴いてないからよくない訳では無いですよ、単なる言い方ってヤツです)、ゲームやスポーツやゴシップやあれやこれやとまぁ多彩だなぁと。なので、「宇多田ヒカルと○○が好き」という人が本当に多い。その○○の幅広さがなんとも面白く、楽しい。

そんな中でいちばん目立つのが「○○=椎名林檎」で、なんだろう、若い人たちからしたらこの二人は同じ/近いポジションなのだろうか。ヒカルに比べたら林檎姐さんはアウトプットが遥かにコンスタントで、ファンクラブもかなり機能しているようだ。ヒカルが鳴りを潜めてる時は彼女の活動を追ってる人が多かろう。

その林檎姐さんがインタビューでも語っていた通り、シーンの構造としては宇多田ヒカルが真ん中にどーんと居て林檎姐さんがその脇を固める感じであって、その“真ん中にどーん”が居ない間ずっと心細さを抱えて留守を守っていたのが椎名林檎。故に心理的には林檎姐さんがヒカルを頼っている。言い方は悪いが、ヒカルからしたら椎名林檎が活動していようがいまいが創作面での影響は軽微だろう。個人的には寂しいかもしれないけれど。ヒカルが主で林檎姐さんが従なのだ。

ところが、リスナー目線でいえば、ヒカルさんは林檎姐さんに頼りっぱなしなのだよこれが。ヒカルのアウトプットが途絶えている時期をずっと繋いでくれている筆頭が椎名林檎なのだから。この心理とシーンの持ちつ持たれつ具合がこの二人の組み合わせのいちばんの魅力なのだろうから、つまり、次のヒカルのアルバムでもまた是非コラボしてくれませんかねという結論になるのです。他のコラボレーションとは違い、もっとコンスタントでいいと思うのですのよ、えぇ。それを見せつける事で「ファンクラブを持たない宇多田ヒカル」の存在がシーンの中で居場所を見つけていってくれる気がするのです。ま、そんな計算的目論見度外視でも、二人が居並ぶ姿はずっと眺めていたいのですけどね。