無意識日記々

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歌抱きたい人、深夜の戯言。

ヒカルが「サントリー天然水」のCM(のメイキング)で『詩も朗読すれば歌になる』と語っていたのがずっと印象に残っていて。確かに言われてみればその通りで。文字として存在する詩は、実体としての歌ではないが、声に出すと抑揚やリズム、声色、読まれるシチュエーションなど様々な「歌」としての要素を持ち始める。定型詩なら尚更だ。

事物は、どこから「歌」になるのだろうか。

さっきまでZABADAKのライブで手拍子をしていた。ZABADAKファンは裏打ちや三連はおろか五拍子や七拍子まで手拍子をこなす練度の高い音楽民として知られているが、当然の事ながら曲の演奏が終わったら、そのさっきまで手拍子をしていたのと同じ手で拍手をする。素晴らしい歌と演奏を聞かされたのだからまぁ当然なんだけど。

拍手は音楽的なものではない。あクマで、音楽や歌が始まる前や終わったあとに巻き起こるもので。例えば拍手をバックに一曲歌えと言われたらプロでも困惑するだろう。きっと大変難しい。それは賞賛の表現であっても音楽ではない。

ところが、拍手ってそれ自体は別にランダムな音ではなくってね。自分でひとりで拍手してみればわかるが、大体一定のリズムとテンポで両手を叩いているものだ。もっと言えば、ひとりで手を叩いている限り、「非常に速い手拍子」と「拍手」は区別がつかない。拍手をゆっくりにしていくと“やがて”手拍子に変わるのだ。

演奏会場で拍手が拍手たりえるのは、大勢の人がバラバラのテンポとリズムで手を叩いている為に他ならない。裏を返せば、もし会場に居る人の拍手が、テンポを合わせ、リズムを合わせ、そして位相(フェイズ/周期とタイミング)を合わせたらそれはもう手拍子になっているのだ。そして、手拍子をバックにすると歌は歌いやすい。それは最も原始的な伴奏である。

恐らく、ただの音が音楽や歌になる境界線はここなのだ。リズムとテンポとフェイズの組み合わせ、もっといえばハーモニーが生まれた時に、ただの音は音楽や歌になる。辞書にも載ってる自明な事なのだけど、こうやって「そうではないもの」との境界線を意識すると途端にイメージが克明になってくる。

冒頭に取り上げたヒカルの言葉をもう一度思い出そう。『詩も朗読すれば歌になる』。これは、手拍子と拍手の境界線より遥かに明確に区別できる一方、解釈は大変難しい。ただの散文を朗読したものも歌と呼びたくなるかという問題があるからだ。ヒカルは、詩の朗読と自分の歌(『誰にも言わない』)がかち合わない事を認めた。そこに何某かの秩序や調和を見出したのだろう。そこのところをもう少しよく理解したいのだが今宵はもう時間も文字数も足りないな。あわよくば、拍手と手拍子のように明解な描写を手に入れたいね。

追伸:それにしても、なんで「拍手(はくしゅ)」と「手拍子(てびょうし)」ってこんなに漢字が紛らわしいの。つまり人の手が入るとただの音が音楽になるってことですかね。変なのー。