無意識日記々

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スリップノットの怒りの音楽とは一転、

コリー・テイラー初のソロアルバム「CMFT」を聴きながら「こういうのでいいんだよ」と膝を打つ。何の変哲もない普遍的なハードR&Rアルバムなのだが、サウンドも演奏も、何より歌唱がとても優れている。これだけ巧いとあれやこれやと手を出したくなるものだが、コリーの手練手管のどれもこれもがきっちりR&Rらしいグルーヴに帰結していて気軽に気楽に楽しめる。そうそう、難しい事しなくていいんだよなぁ……いやこのアルバムのパフォーマンスを成し遂げる事自体は難しいんだけど、リスナーを小難しい顔にさせることはない、という意味でね……

……という話をしようとして小難しくなったのが前回の日記で。反省。

どうしても最近のアメリカさんの流行り歌というのは感染症禍を背景とした重々しい歌詞が目立つのだが、ミュージシャンてのは悲喜何れだろうとエモーショナルな体験を動機として創作活動に打ち込むので、メディアがそういう色合いだとそちらに傾くのは仕方がないわね。大統領選を背景に政治的な関心も高まっているし、そういうテーマも多いわな。

日本ではなるべく音楽活動に政治を持ち込まない態度が得策とされているが、ひとつには、この国では政治的な話題が感情や情緒に訴えかけないからではないか。それが常に権力闘争で、個々のアイデンティティとの係わりが薄く、基本的にドライな利潤追求の場であるからだろう。何か自己実現とか前向きな要素がないのかもしれない。

日本のヒットチャートにはなかなか喜怒哀楽の「怒」を前面に押し出した楽曲が現れない。そもそも今の日本にヒットチャートがあるのかと言われたらわからないけど、米津玄師が世の中に憤るシングル曲を発表してもウケないだろうなぁというのは何となく雰囲気でわかる。昔忌野清志郎がテレビで怒った曲を歌ったら発禁になっていたなぁ。

ヒカルさんは、作ってる最中は色んな事に怒ってばかりだが、出来た歌が怒りに満ちているという曲はなかなかない。寧ろ、そう、怒りを収めるだけの作業を総て経て初めて曲が完成する訳なので、その時点で怒りの感情は消え失せている。怒の感情がドライヴィング・フォースとなってはいても、それは手段であって目的ではないのだ。

怒りを総て自分の作業に向けていては、他者を怒っている場合ではなくなる。他者に憤り他者を仕向け他者から搾取し他者を操るのが政治であるのなら、なるほど音楽に政治的な何かを持ち込むのは違うのかもしれない。ヒカルは他者を励まし時に与える事すらあっても、それで何かをしようという感じではないからな。

この特質が、偶然なのか必然なのか政治を忌避する日本の市場にフィットして何曲も大ヒットを送り込む事になった……という纏め方は流石に少し違う気もするが、そういう要素もひとつにはあったのかもしれない。引き続き考えとくかなそういう話は。