無意識日記々

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“らしさ”がゲシュタルト崩壊

「音楽面での宇多田ヒカルらしさ」という風に書いているが、これもまた少しややこしい。というのも、宇多田ヒカルという人はシンガーソングライターなので、歌手でありまた作曲家だから。

作曲家としてのヒカルは、自らの声に合わない曲まで書けてしまう。それが事態をややこしくする。ヒカルの元来の声質自体はアルト寄りの、まさに母親譲りのどこか「明るい歌を歌っても切なく響く」タイプのもので、こういう声は『Prisoner Of Love』のような叙情的な曲調で最大限の効果を発揮する。一方で、作曲家としては『Easy Breezy』のようなガーリーでポップな曲も書けるし、『Passion』『海路』のような壮大な曲調も書けるし、『ぼくはくま』のような童謡も書ける。そのどれにも須く声質が合おう筈もないのだが、更にややこしい事に、ヒカルは歌唱技術も尋常でないから声質の相性を消し飛ばす程に歌いこなせてしまったりもする。

そんな風なので、より細かく言えば、なんとなくの“世間”が宇多田ヒカルに求めている曲調というのは、『Time』のようなシリアスでほんのりダークで激情迸るリリカルなタイプなのだが、これは“歌手”宇多田ヒカルに求められる芸風なのだということが出来る。この声に歌って欲しい曲調だ。

一方で作曲家宇多田ヒカルはそこに留まらない幅広い曲調を生み出すことが出来ていて、その中に自分自身の“人となり”を表現した楽曲もバリエーションのひとつとして含まれている。前回触れた『光』や『誰にも言わない』がそれにあたる。そんな話の構造になっている。

つまり、普段安穏と使う「宇多田ヒカルらしさ」という言い回しは、「歌手としての宇多田ヒカルらしさ」と「作曲家としての宇多田ヒカルらしさ」と「人としての宇多田ヒカルらしさ」の三つが差程意識的に峻別されることなく使われているのであった。

その上で、「作曲家としての宇多田ヒカル」が、歌手宇多田ヒカルの声の魅力を最大限に引き出す曲を書くこともあるし、人としての宇多田ヒカルの魅力を表現した曲を書くこともある、というのが実情なのだと思われる。ここを整理して話さないと、「これって如何にも宇多田ヒカルらしいよね」と話し掛けた時にスタート地点から齟齬が生まれてしまいかねない。注意が必要である。

更に更にややこしいことにっ! 作曲家としての宇多田ヒカルという人は「今までにやったことのない曲調」を繰り出すのがその根本的な性質なのだ。有り体に言ってしまえば「宇多田ヒカルらしさとして定着していない新しい何かを生み出すのが宇多田ヒカルらしさの極み」というのもまた真実なのであった。ここまでくると最早禅問答じみてくるがこういう時禅問答って言っちゃうの禅宗の皆さんどう思ってらっしゃるのだろう閑話休題

まぁ、そんなややこしさがややこしく絡まり合ってる「宇多田ヒカル」らしさだが、我々がどの魅力に囚われていようとも、最早ここまで絡め取られてしまっては抵抗するのは諦めるべきだろう。次なる新曲にもまたその「宇多田ヒカルらしさ」に存分に翻弄されてやろうじゃありませんか。