無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

昔は英語メッセ訳してました私

そうなんだよねぇ、そういえば昔はヒカルの口調(筆致)を真似て英語メッセを翻訳していたんだった。ヒカルがいつからか日本語と英語の両方でだいたい同じ内容の文章を書いてくれるようになったので余り訳さなくなっていったが。

メッセを二三周読み込んでいればヒカルの口癖なんかは頭に入ってくる。『線』なんて書籍を発売したことからもわかる通り大体千回分くらいある。これだけサンプルがあれば確かに傾向とか特徴とかは抽出できる。

となると、そこから一歩踏み込んでよりヒカルらしさを出す為には「如何にもヒカルが言いそうだけどそれまでに一度も言ったことの無かった言い回し」を織り込むのがベターだろうと考えて当時は様々な試行錯誤を重ねた。今読み返すと上手くいってるケースもあればそうでないケースもあって様々だ。「ここの段落は1999年頃の口調と2003年頃の口調が混ざっちゃってるなぁ」とかそんな感想も読み返すと出てくる。時期というのも重要なのよね。そりゃ16歳と26歳じゃ喋り方も変わりますから。

で、そうやって脳内でヒカルの口調をシミュレート/エミュレートしてわかったこと。脳の負荷がとんでもないのな。宇多田ヒカルの言葉遣いを真似するというのは物凄く脳を消費する。よくお前こんなんで毎日生きていられるなっ!とよく悪態をついていたわそういえば。それくらいありとあらゆる様々な事を考えて生きてる人なのよヒカルさんて人は。

なので、メッセの筆致というのは、単なる癖というよりは、ヒカルが如何に頭を使いまくって我々にメッセージを発し続けてくれていたかの証左であった訳だ。今更ながらにその労力と誠実さに感謝の念が禁じ得ない。今でも私ゃ「メッセ復活しねーかな」とことある事に日記に記してはいるけれど、ヒカルからすりゃあんな大層な事はもう卒業といったところなのかもしれない。大変だわ確かに。

Webにアクセスする人口が増えすぎたのも大きいような気がしている。あんまりにも読者の数が増え過ぎて、ちゃんと内容が伝わるように文章を書くのが難しくなってきたというか。もっと言えば、何か語るより黙っていた方がメリットが大きいようになっていったというか。

そこらへんには、自意識過剰と言われようと反省材料がある。もし、ヒカルが出すメッセージに対してもっとモチベーションが上がるようなリアクションが取れていたら、少しは状況が変わっていたかもしれないなと。あたし一人の話ではないけれど、こういうのはひとりひとりが自分事として捉えて反省回顧しないと身が無い意味が無い。なんとかならなかったのかな……。

幸い、今でもTwitterというツールのお陰で、短いながらも日々ヒカルの言葉が浴びられている。アクセスする人間が増えた分、140字以内で纏めるというスタイルは、より多くの人に届き易い状況を形作れるようになった。故に昔のように長い文章でめくるめく心の旅を堪能できるようなケースは減ってしまっているけれども、何より、ヒカル自身の本質的な部分は何ら変わっていないのだ。表現方法や伝達手段は変異しても、心の核に遺る何かは22年前と同じである。昔のようなハイテンションではないけれど、その分シンプルなセンス・オブ・ユーモアで楽しませてくれている。やってみたことはないが今のヒカルのツイートの芸風を真似るのだってきっと脳の負荷は高いのだろうな。

そんな強靭な脳を持つ人が総ての集中力を注ぎ込んで作った新しい歌が手に入るまであと二週間か。昔のメッセを振り返りながら今のヒカルを捉える。勿論捉えきれはしないのだけれど、今までの歴史を知っているというのはなかなかに面白いもんなのよ。さぁ、どうなっているだろうねぇ?