無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

月曜朝から鬱々な内容ですまぬぅ

さて今週末はバースデイウィークですね。なんとかこの週だけでも平和に過ごしたいものです。

とはいえ、ヒカルさん『Thank fucking goodness.』って呟いてたから、今週20日(日本時間だと21日か)に予定されてる米国大統領就任式典が無事終わるかどうか結構気にしてると思う。ほんと、無事に終わってくれ…。

最早渦中の人は幾つものSNSから忌避され、政治家としての扱いはされなくなっている。つまり、犯罪者予備軍としての扱いに変わっている訳だ。なので今どんな発信をしているのかわからないけど、流石に式典を潰しには来ないと…思いたい。

日本で「彼の支持者」というのが沢山いるようにみえてるのは不可思議なことで、もともとそんなにかの国の政治にあんたらそんな関心無かったやんけと言いたくなるのだが、まぁ元々の原因は与党のウェブ対策なのだろうけれども、この延焼の仕方は今の時代にそぐう「カルト待望論」みたいなことなのだろうと思われる。

どうにも、少しずつだが、感染症禍下の社会不安の受け皿として「カルト的な何か」への需要が高まっているのではないかという感じが漂ってきている。直接宗教を謳っては無くともそれと同等の機能を果たすシステム。阪神大震災があった1995年頃の空気も少し思い出す。

そこにおいて、この2021年独特の特徴として「コンテンツ利用」のような雰囲気を感じ取っているのは心配し過ぎだろうか。今まででも資金力にものを言わせて豪華声優陣による啓発アニメを製作するなどの動きはあるにはあったが、それらと比較すると、今の現状、余りにもコンテンツ産業のノウハウの蓄積が嵩張りすぎていて「それ作品として普通に面白いじゃん」と言いたくなるコンテンツが、明示的にはカルトとは呼べなくてもカルトと同様の構造を持つシステムの中に組み込まれてきているのではないかという危惧がある。

実を言うと「新世紀エヴァンゲリオン」もまた90年代当時は文字通り“カルト的な人気”を誇っていたのだが、当時はコンテンツを取り込むというような発想はなかった。カルトを求める空気をコンテンツが吸収するという、実は社会的に大変意義深い構図を拵えられていた。今はそれが逆転する恐れがある。なんとも、怖い。

音楽というのは実は宗教と繋がりが深い。既知の中で人類最高の音楽家であるJ.S.バッハは大量の宗教音楽を創造した。宗教と音楽は分かち難く結びついていたのだ。神秘的体験とでもいうべき音楽の経験がそこにはあった。音楽もまた、カルトに利用されないように十全に注意を払わねばならない。

しかし、原稿の音楽産業の中でも宇多田ヒカルというブランドは、とはいえ、もっともカルトから遠いからこれがとにかく安心なのだ。何故ってファンクラブがないんだもの。組織だって何かの方向に動くというカルトの構造の基礎すらない。どう転んでも大丈夫。もっと言えば、貴方が今のヒカルを好きな間は安心していて構わない。周りにヒカルから離れて怪しい活動に身を投じていそうな人がいたら、それは気をつけた方がいいかもしれない。

こんな状況だもの、誰だって不安にもなる。そんな時はヒカルの歌を聴いたり歌ったりするのがいちばんだ。そこで何かを感じる感性が確認できれば安心していていいだろう。「ヒカルが変節してないかどうか」という仮に万が一心配してみたとしても全く無意味な点については私が責任をもって見続けているのでそれも…いやそれでは安心できないと言われそうだな(笑)。まぁ、いつだって懐疑的な目で見てますよ。心の底から信じているのでね。

そんな感じで生誕祭週間を祝っていきたいと思うので…気楽にやろうぜっ(どの口がそれを言うかなっ)。