無意識日記々

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韻は作詞の都合よりもまず作曲の都合

インタビュー完全版から抜粋。

『メロディと歌詞の関係についても、元々メロディをつくったあとに文字数も考えながら歌詞を書くんですけど、母音をメインに考えていくんですね。』

この、メロディと母音をセットで考えているというのがポイントで。母音というのはつまり音の伸ばし方だが、これは楽器で言えばその弾き方や鳴らし方の違いに相当する。いやさ、あ・い・う・え・お、それぞれが別の楽器に対応する、とすら考えてもいいかもしれない。例えば「あ」の音で高らかに歌い上げるのはトランペットのような喇叭の華やかさを連想させるし、「い」の音を伸ばすのはヴァイオリンのように弓で弦を撫でて高音を伸ばすようなイメージだし、「う」の音を伸ばすとフルートのような木管楽器の“管(くだ)”を鳴らしている感じがする。「え」の音はサステインの効いたエレクトリック・ギターの中音域だろうか。「お」はホルンのような、金管楽器の中でもふくよかで低音側に倍音がある音のように聞こえる。まぁこれらは一例に過ぎないけれど、メロディに楽器の奏で方が結びついている……スタッカートだとかレガートだとかスラーだとか、そういう音楽の作り方をする中で、歌詞の母音に制約がある……というか母音が先に決められていってしまうのは必然ともいえる。どうしても母音を変えたい場合はメロディの方まで変えることに……なったのが例えば『光』と『Simple And Clean』の関係だわね。

インタビューでヒカルはこう続ける。

『メロディを思いついて歌詞がまだない状態で歌っている時に、だいたい母音がかたまっていって、そこからその母音に沿って言葉の選び方・置き方を考えていくので、どうしても語呂が大事なんです。イメージした子音や母音が違うと良いメロディに思えなくなってしまうんですよね。』

このヒカルの言い方は目から鱗かもしれない。普通、「歌詞が韻を踏む」というのは、作詞者が一所懸命に同じ子音や同じ母音の音を探してきて次々と当てはめるようなイメージがありはしないだろうか。最初に「やっぱり」がきたら「がっかり」「すっかり」「すっぱり」「きっぱり」「さっぱり」みたいな感じでどんどん増やしていくような。

ヒカルの作詞はそうではない訳だ。先に母音が固定されてしまっているから、必然的に「韻を踏まざるを得ない」のである。極端な事を言えば、韻を踏みたくて踏んでいる訳ではなく、作詞の方の都合はまだ全く出てきていない、即ち、どんなテーマを歌うのかも決まっていない段階で既に“音楽の方から”母音の要請があって、歌詞の方が後からそれに対応せざるを得なくなるのだ。

故に、ヒカルの歌詞の音韻はわざとらしさが極端に少ない。ラップの中には余りにもうまく音韻を踏み続けられた場合いつしかドヤ顔が出てきてしまうものだが(そういうものだしそれが魅力だ)、ヒカルの場合は、音楽的必然性が先に来ているからまず耳馴染みの中に「してやったり感」が現れて来ない。極めて自然に音韻が運ばれている。

そう、「韻を踏む」というと作詞面での話だと思いがちだが、ヒカルの場合それは元々は作曲面での話なのだ。その作曲上の制約が、作詞側にまではみ出して来ているのである。これで作曲家と作詞家が別人だったら行程は決裂していたかもしれないが、残念無念、作曲が宇多田ヒカルなら作詞も宇多田ヒカルなのである。そうして作詞家のヒカルは作曲家のヒカルにぶつくさ言いながら懸命に条件に合う言葉を日夜探し追い求め続けるのでありましたとさ……。(講釈師見てきたように嘘をつき)