無意識日記々

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ラジオを二度見させる絶妙な匙加減

ヒカルがラップと親和性の高い作詞をするという話の時にポイントとなっているのは、インタビューにもあったように「なぜラップだと固有名詞が言い易いのか」という点だ。『Too Proud (live)』の『ビートたけし』なんかもそうだったし、ラップではないものの『One Last Kiss』の『はじめてのルーブル』もそれに当たる。

この「なぜ」に対するシンプルな答えは、「ラップの場合歌い手は、歌詞の中の登場人物になりきるのではなく、歌い手本人の言葉として声を出している」と受け止められているから、だろう。

一方、「朗々と歌い上げる」人は、ふとそこでスイッチが切り替わって、声にメロディーを加える。「歌詞の中の登場人物を演じるモード」に入るスイッチだわな。ラップではそのスイッチを押してる感じが無い、或いは弱いのだろう。これも単純に、ラップの方が、音程が無い分、普段の話し方により近いからか。

ここらへんの境界は曖昧かつ主観的で、例えば昭和の人は松本伊代が「センチメンタルジャーニー」で「伊代はまだ十六だから〜♪」とメロディーたっぷりに歌った時に「あぁ、松本伊代本人の言葉だな」と素直に受け取ったし、一方エミネムの「スタン」のラップ・パートは別にエミネム自身の言葉を綴った曲じゃない。どちらもリスナーに訝られずに受け入れられている。なんというか、ここらへんはリスナー側の感覚によるところが大きくて、明確な区切りはないように思われる。もっといえば聞き手の思い込み次第なので、ヒカルもインタビューで

『その差ってすごく微妙なところで、空気をちょっと読まないと気持ちよく効果的にできない。そのさじ加減をしてるだけなんですけどね。でも、段々そういうのがアリになってきてますよね。それは、ラップがどんどんメジャーなものになってきているからかも。』

という言い方をしている。そして実際、今の風潮はもうそのラップも歌も混ざり合ってしまっていて、となるとそれは、「歌い手本人の言葉として発せられている」のか「演じられている登場人物の言葉として発せられている」のか、それすらも曖昧でわかりにくくなってきているのだろうな。

これって、映像の分野では昔からあるやつで。自分の世代などは「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」っつー映画なんかが有名なんだけど、現実のドキュメンタリーなのかフィクションの映画なのか曖昧なところから始める、みたいなやつ。いやもう映画だけじゃなくてバラエティーとかでもずっとあるわな。モキュメンタリー(日本で言うフェイクドキュメンタリー)とかリアリティ番組とかいうのも、その流れの一部か。そういう、作品をドキュメンタリーとフィクション(現実の記録と虚構)の狭間に置く手法が、音楽に於いても新しく染み渡ってきているのが現代なのかもしれない。

なので、それがラップであるかどうかという音楽的手法の話というよりは、リスナーの方がリリックやライムを誰の言葉として受け止めるかという「思い込み」や「約束事」の範疇の話と言った方がいいのかな。それらを決めているのは時代の流れであったり、さっき触れた映像の世界のような、他の業界からの影響だったりするのかもしれなくて、確かにかなり微妙な問題だ。

ヒカルの『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』などは、リスナーが「え、それは歌の主人公の話?それともHikki自身の話?」と一瞬戸惑う絶妙なラインを確かに攻めていて、あれ無防備な状態でラジオから流れてきて初邂逅だったら間違いなくラジオを二度見してたと思うわ(笑)。インタビューではヒカルがそこらへんに関してかなり自覚的で、手法としても確立されたものを駆使してる事が窺えてとても有意義だったな。