無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

『なにも触れることはできないけどすべてのものと繋がっている』

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※●はoにサーカムフレックスを付した文字

https://www.yomiuri.co.jp/kodomo/fromeditor/notice/20210802-OYT8T50047/

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……直ってた(笑)。スクショ撮り忘れてたけどまぁいいか。

さて内容の話。ヒカルさん、どんな所でも日本語を扱わせたらフックラインを作り出すよね。

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――人が死んだ後、天国や地獄といった世界に行くと考えていますか。

宇多田  身体がある時とは違って、なにも触れることはできないけどすべてのものと繋がっている、そんな世界をイメージしてます。

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これですよ。斯様な問答は幾つも見てきたが、こう答えた人を他に知らない。とても示唆に富んでいる。

特に『なにも触れることはできないけどすべてのものと繋がっている』という一節は将来歌詞として登場しても全く驚かない。いやね、いつ何が歌詞になるかなんてわかんないんだよ。『Celebrate』の『触れてないのに感じる』という歌詞は、ヒカルとクマ・チャンの 

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2007.05.06

定番

『わ ほんとだ ひかるちゃん おでこがなんだか むずむずするよ』

「でしょ〜。触れてないのに不思議な感じがするでしょ。」

『あんっ むずかゆいよ こそばゆいよ』

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_57.html

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/img/2007050620250j.jpg

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という会話から生まれたのだと専らの噂なのだから。(主に私の中で、だが) 新聞宛への返信内容が歌詞に生まれ変わる事だってあっていい。

また、その含意がいいよね。ヒカルの言っている事の裏を返せば、何かに“触れる”為には、それとは繋がっていない状態でないといけないと。身体ってのはそれ自体が断絶の象徴で、その身体によって、意識が個々に分断されている。それが触れ合う事によって不完全にではあれ繋がる事が出来る、と。

先日、「新劇場版エヴァンゲリオン」の四部作、そのラストシーンは総て碇シンジが誰かと手を繋ぐカットを含んでいるというツイートが話題になった。これもまた、「身体の在る者」同士が「繋がる」行為だ。

エヴァンゲリオンという作品を思い返した時、特に旧劇版では、その身体性の融解はもうそのまんまアニメーションのモチーフとして描かれていて、「人類補完計画」と呼ばれていた。そこでは総ての身体が溶解し意識が溶け合い融合するのだと。他者も自己も無い世界。ヒカルの言う『身体がある時とは違って、なにも触れることはできないけどすべてのものと繋がっている、そんな世界』は、エヴァのその人類補完計画後の世界と非常に親和性がある。それを意識していようがいまいが、やはり主題歌を受け持つに相応しい相性だったのだと痛感し直した。

他者が在るから、そこで繋がりが絶たれているから触れ合えるのだと。それが生きているという事だと。そうでない状態を死と呼ぶ訳か。

確かに、意識のハッキリしない幼少時というか乳児期は、周りと自己、育ての親と自分の区別もなく、自分にも身体が在って、向こうにも身体があるのだなとわかるまで随分とかかった。その頃はまだ生が確立しておらず、より死に近い状態なのかもしれない。ただ、そういう状態から死に近づいていく老人とは違い、赤子はそこから生へと成長していくのだけれど。抗って。子育てを通じて、そういった事も感じ取ってきたのだろうかなヒカルは。

たまにはこうやってあらためて死生観について語って貰うのもいいもんだ。次の『ヒカルパイセンに聞け』企画ではまたもうひと工夫した質問をしたくなったぜ。