無意識日記々

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Rap an' Japan

2005年に『EXODUS』にまつわる仕事が一段落して(ショウケースギグ〜英国デビューあたりまで、かな?)日本に戻ってきてヒカルが“宇多田ヒカル”としての活動を再開した際、『Be My Last』を携えてプロモーションに励みながら「最近さだまさしを聴いてる」といきなり言ってきたのにちょっと吃驚した覚えがある。それを聞きつけたのやら何なのやらその後「HEY!HEY!HEY!ミュージックチャンプ」にヒカルがゲスト出演した折にさだまさしもやってきて共演という形になった。彼の、

「『It's Automatic!』が「いつお泊まり?」に聞こえて、15歳なのにけしからん、親の顔が見てみたい─と思ったら藤圭子だった。(笑)」

とかいうネタが飛び出したのはこの時だ。(動画参照すんのめんどいので不正確ですあしからず) まぁそれはいいんだけど。

でも確かに、ずっと英語の活動をしてきて日本語の歌に戻る時にさだまさしってチョイスはアリだな、と当時も思った。この人は歌詞にメロディをつけることもメロディに歌詞をつけることも抜群に上手い。それがあるからコンサートで歌とMCをシームレスに繋げて聴衆を楽しませられるのだ。観たことないけど。「MC2時間歌2曲」でライブが成立するって凄いよね。若干誇張ですが。まぁ彼の小咄も誇張ばかりなのでw

例えば有名な「関白宣言」なんか、はメロディがとてもしっかりした曲なのだが、兎に角歌詞が軽妙で(当時の)世相を捉えていて、まるでその場で喋ってるみたいな歌なんだよな。ああいうの、よほど日本語の性質を捉えられていないと無理だろう。

ふとそんなことを思い出したのは、今の流れでいくとヒカルが次作でいよいよ日本語ラップに挑戦しそうな雰囲気だからだ。『Laughter In The Dark Tour 2018』ではもう既に『Too Proud』で披露しているし。

で、私の昔からの持論なんだが、「日本語で歌おうとすると、どうしても最終的にはフォークに落ち着いてしまう」と思ってる。今まで、色んなミュージシャンが西洋で生まれた音楽に日本語歌詞をつけてきたが、ロックもパンクもラップ/ヒップホップも何もかも、やってるうちにどれもフォークになっていくのよ。(GLAYとかモンパチとかファンモンとか?) 反体制的なパンクもスタイリッシュなヒップホップも日本語で「父さん母さんありがとう」とか歌い始めたらもうフォークにしか聞こえなくなる。なんかもう呪いというか、結局日本語の特性をいちばん活かせる西洋音楽はフォークなのだろうなと。

宇多田ヒカルは、「そうならない」日本語ラップを生み出せるだろうか?─それが目下の関心のひとつである。今まで日本語アルバムで“正真正銘の”ラップを披露してこなかったのは、なんだかんだで、ヒップホップスタイルのラップミュージックとストレートな日本語の交わる点を見出しきれてこなかったからではないかなと。……なんか言い方が生意気な気がするが、それはあたしがラップのことをわかってないからだな。まぁそれもいい。

リズムやライムに載せるには、日本語はやや湿っぽく情緒的に過ぎる。喋りと歌の境界線を無くせる程に自然な技巧をみせたさだまさしが日本語フォークの王道を通ってきた人なのだから、あれくらいの偉業を、英語ネイティブで小さい頃からR&Bやヒップホップのリズムと作法に(も)明るいヒカルが、日本語のポップ・ミュージックに新しい切り口を与えてくれる形を実現出来れば、今度こそ初めて、ムーブメントといえる「宇多田ヒカル・フォロワー」が、沢山生まれるかもしれない。はてさて、そんな夢物語は現実になるんでしょうかね? そうなったらフェスのヘッドライナーとかも似合っていきそうなのよねぇ。