無意識日記々

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面影平気になった、のかな?

次のアルバムの作風を妄想するには、前作と前々作を線で結んでそこから延長してみるのも有用かもしれない。

2016年の『Fantôme』に較べて2018年の『初恋』は、一言で言えば「より華やか」であった。真ん中に『真夏の通り雨』、最後に『桜流し』を配した『Fantôme』は、追悼盤としての悲しみと重みを湛えていた。その悲しみの底から上がってくる過程なのだから、より明るく華やかになるのは道理だろう。

と、そう思っていたのだが、先日のインスタライブで「やっと母の写真を飾れるようになった」と語った事に少し驚いた。『初恋』収録の『嫉妬されるべき人生』に『母の遺影に供える花を替えながら思う』という歌詞が出てきていたからである。

『Fantôme』には『花束を君に』が収録されていた。様々な過程を経て宇多田ヒカルが表舞台に還って来た事を報せた1曲であり、母への追悼盤となる同作の第一楽章ともなっていた(アルバムの一曲目自体は『道』だけどね)。それを踏まえた上でこの『花を変えながら』の一節を聴いて、『花束を君に』から時間が経過したことを痛感する。その歩みこそがアルバム『初恋』であって、『嫉妬されるべき人生』とはそこで得た一旦の結論でもあった。

そう捉えていたので、つい最近まで写真を飾れなかったというのは、『嫉妬されるべき人生』の歌詞が、“した事”というより寧ろ“願い”に近かった事を伺わせる。一見「華やか」に見えていたアルバムの印象が、「今のヒカル」というより「今のヒカルの祈りの言葉」から来ていたものだったのかなと少し修正を余儀なくされた。

ヒカル自身が、自分の経たプロセスを反映した歌詞を書くというより、これからこうなりたいとかなるかもしれないとかならざるをえないとかなるんじゃないかなとか、そういった未来を見据えて歌詞を書き、それに導かれて前に進んでいる、ような。ヒカルが歌をどこかから引っ張り出してきてるというよりは、歌にヒカルが引っ張り出されているような。

そう考えると、『One Last Kiss』の『写真は苦手なんだ でもそんなものはいらないわ』という歌詞も、強がりだったりもどかしさだったりの表現だったのかも、とも思えてきて、そうね、少々混乱する。自分が困惑するように母も撮られる事に困惑していたのだろう…という事を、歌詞を書いた後に気づいたようにも思えてくる。面影の残し方にも、色々あるものだ。……で、そのインスタライブで告知されていた『One Last Kiss』の直筆サイン入り絵画風写真はどうなったのかしらん?( ͡ ͜ ͡ )