無意識日記々

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「もうやめようぜ、倒置法は。」

自己言及系のジョークに次の二つの名言(迷言)がある。

「もうやめようぜ、倒置法は。」

「私は差別と黒人が嫌いだ。」

どちらも「いうたそばからあんたみずから!」とツッコミを入れたくなるヤツだが、前者は日本語が崩壊しない限りずっと通用する普遍的なものであるのに対して、後者は歴史や文脈に依存する。

毎度言っている事だが差別というのは単なるパワーゲームであって、多数派や強者が少数派や弱者を一方的に貶め潰す事を言う。属性に関する性質は問題ではない。その時々の強者の振る舞いが不適切な事を指すだけである。(なので「差別される方にも原因がある」とかいう言説は一切耳を貸さなくてよい。属性の性質は関係がないのだ。力関係の話でしかないのだから。)

故に、仮に黒人が世界を支配し白人を虐げている世界線上であれば、「差別と黒人が嫌い」は何ら自己言及矛盾を生まない。寧ろ、支配階級である黒人に対する正当な怨嗟として機能するだろう。実際、現実世界で黒人が「私は差別と白人が大嫌いだ」と言ってもそれは差別発言にはならない事が多いだろう。白人は差別行為の主体だからだ。「私は白人が嫌いだ。なぜならば彼らは我々を差別するからだ。」という意味にとられる。属性で嫌うことは決して褒められたものではないが、同情される事がかなり予想される。

斯様に、言葉による差別社会への言及は、歴史や文脈、現在の状況や置かれている地理に依存する側面が大きい為、例えば歌詞に盛り込むとなると相当の気遣いを要する。

ヒカルが前年からのBLM運動に対して歌詞上で何かを言及したりするかというと、少なくとも日本語歌詞では難しいというのが私の見立てだ。余りにも、日本語圏と英語圏では“Black Lives”の意味する所や与える印象が異なり過ぎる。特に、現代の日本に蔓延る人種差別国籍差別は「肌の色が同じ」「見た目で区別が難しい」という、白人による黒人差別とは真逆の状況で起こっている(しかも何百年という歴史があるようで、それは米国よりは古いかもしれない)ので、何かを言ったとしても伝わるどころか真逆の受け取られ方をされかねない。難しいというより最早危険だ。

だが、日本語圏以外のUtada Hikaruファンは、BLM運動に対する言及をHikaruに対して希求しているかもしれないし、求めてなくてもそういう発言がいざあれば大変勇気づけられるかもしれない。薮蛇を恐れていては暗い森を抜けられない。なかなかに苦渋だ。

17年前の今日、日本で先行発売された『EXODUS』からもし『Let Me Give You My Love』がシングルカットされていたら英語圏でどう受け取られていただろうなぁ、とふと考えてこんな事を書いた。次のアルバムには、何曲英語詞曲が入るのやら、ね。