無意識日記々

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やれやれどっこい症候群

今日書くはずだった日記を駄洒落の為に昨日書いてしまったので流れが少しおかしいけれども、まぁええか。

「最愛」の新井プロデューサーのインタビューがアップされているけれども、やっぱりこの人は「テレビドラマを観てる人」に対して作っているなぁという印象。テレビドラマだからそれで何の問題もないのだけれど、普段そのテレビドラマを観る習慣が無い私のような人間からすれば少しやれやれどっこいしょという感じがする。頭のスイッチをテレビ向けに切り替えないといけないからね。

今、自分の手に持っているスマートフォンというのは本当に恐ろしい機器で。これがない時代を知っているからこその感慨なんだけれども、小説も音楽も漫画もアニメも映画やコンサート・演劇・イベントの生中継ですらこれ一台で事足りる。そんな機器がずっと手元にあるのだから、普段の生活の中では複数のモードを何度も行き来する。同じ音声コンテンツでも音楽耳だったり落語耳だったり、視覚コンテンツも活字を読む時と漫画を読む時でも違うし、アニメの配信を見る時でも30分ものか2時間の映画なのかで違うし。更にゲームやアプリを楽しむとなるともうやることなすこと山積みに。兎に角兎に角、自然にやっている部分もあるけれど、如何に異なるモードにすんなり入っていかせて貰えるかというのが大事な気がする。

旧来からあるメディアほど、そういうモードの切替に無頓着でな。「テレビドラマを観る人」の中で「次はこう来たか」みたいな侃侃諤諤をやり合うのが楽しいんだろうな、というのは観てて伝わってくるのだけれど、そういうモードに無い人を引き込む力は弱い。地上波テレビというメディアの中でも依然最強クラスの中に居ると、自分たちが内輪ノリでやってるとい意識が持ちにくいのかもな。

それは分断が進んでいるのかもしれないし、洗練が進んでいるのかもしれないし。或いは両方なのかな。こういう時代だから「鬼滅の刃」みたいな親切設計が浮遊層を取り込めるんだ、という話を、前々からしているんだが、それはどのメディアでも同じなので、そこのところを意識したコンテンツがどんどん前に出てくる気はする。

宇多田ヒカルは今年、『One Last Kiss』でどれくらい浮遊層を取り込めたのだろう? 音楽を聴くリスナーを唸らせる新奇性を盛り込むと同時に、スマートフォンの奪い合いの中で、「音楽を聴くモード」にどれだけの人を引き込めたのだろう?と考える。そういうのって、案外アイドルとか声優とかの方が得意だったりするしな。ジャニーズを追っ掛けてたら、ドラマは観るし音楽は聴くし舞台に行ったりグラビア雑誌を買ったりと。まぁアイドルの仕事ってな多岐に渡るから。そのジャニーズ自体は20年間ずっとネットと距離を置いてたけどもね。まぁそれはよう知らん。

ヒカルのような「専属音楽家」ともいうべき立ち位置は、そもそもが音楽リスナーを相手にしている前提で話が動いていくから、余りメディアを跨いでのアピールというのには向いていないのかもしれない。なんだけど、ヒカルってその内輪ノリに非常に拘る一方でそれに留まらない所にも興味があるように思うので、デビュー20周年を超えた現在の次の10年で、「商業音楽の顔役」として、どんなアプローチでメディアを超えていくのかなというのをつらつらと考えていましたとさ。──まぁ例えば、「宇多田ヒカルがワイヤレスイヤホンをつけてたから私も買いました」みたいな、ああいうのだよね。イヤホン買ったら音楽聴くモードが増えるだろう、っていう。今後もそういうタイプのタイアップを期待していきたいですわ。