無意識日記々

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まるで終わらないデジャヴ

単なる前回の内容への些細な付言になるが、いつも言っている「輪廻転生の世界観を論理的に反駁するのは難しい」論は、主体としての「私」同士(地球上だけでも70億人以上)の間に何らかの相関があるとしても何ら不合理ではないからだ。輪廻転生とは異なる「私」から「私」へと視点が遷移することであって、記憶の継続は必須条件ではない。たった今その場所から宇宙を観測する何かであればいい。確かに、であるなら遷移自体が無いとしても不都合はないとは言えるが、それはあるとしても不都合ではないので論として形成されていない。結局それらは観測からは決定不能であるとなるが、そもそも観測者は観測される客体ではない。観測不能性はそもそも議論の対象ではないし、そのようなものにも万物の論理は適用され得る。

……とかなんとかややこしいことを言っているが、要は「またヒカルが転生を歌詞に盛り込んできたな〜」からの考察の続きである。『来世でもきっと出会う』。これはいつも通りだがここに『科学的にいつか証明される』まで付け加えてくるとなるとかなり意地になっているというか、ヒカルの中では確定事項だということだろう。転生は、あるのだ。

今回キーワードになりそうなのは、さらにキャッチーなフレーズである

『まるで終わらないデジャヴ』

の箇所だろう。デジャヴ=既視感。初めての場所なのに前に一度来たことがある気がする、とか、この人と会うのは初めてなのに今この人の言ったセリフを聞いた事がある、とかそういった感覚の事だ。これも話を損得で考えるなら、それは未知の記憶の話ではなく、エピソード記憶から日時の記憶が欠落して起こる事でしかない、という答え方になるだろう。つまり、自分には知らない記憶があった!のではなく、持っている記憶が欠けている為に起こる勘違いとエラーなのだと。それはそれでいい。

ではない、とすれば、どうなのか? 先程は「記憶の継続がなくても転生観は反駁できない」とは書いたが、実際には転生時に記憶の断片が継承される事もあるのでは? だとしたら、デジャヴとは、前世の記憶への参照かもしれず、それが『終わらない』というのは、何世代もの転生を繰り返しても思い出され続ける強烈な記憶だからなのでは、と。『君に夢中』なのは、前世の前世の前々々世からずっと2人は出会ってきたからなんじゃないかという主張なのかもしれなかった。ヒカル自身、これから生まれてくる我が子に挨拶される夢を視ているしな。

https://twilog.org/utadahikaru/date-141119/asc

本当のところはどうなのか。歌の全貌を早く知りたいものである。