無意識日記々

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現行の安心感と新奇性の合体手法

2016年の『Fantôme』以降、ヒカルの歌唱力は上がったし歌詞は大きく進化したしサウンドプロダクションはよりオーガニックになり日々アップデートもされてきている。人間活動期があったとはいえ、いや、あったからこそかもしれないが、デビュー23周年を迎えようかというベテランアーティストらしからぬ新鮮さを常に保ち続けている。

だが、ただ1点気になっている点がある。歌メロの新奇性だ。これがかなり薄い。最初『真夏の通り雨』を聴いた際は歌詞重視だから敢えてかなと思っていたが、どうやらそうでもないらしく。ここ数年は聴き慣れた節回しを多用するようになった。

昔はヒカルといえば「同じ事の繰り返しはつまらない」と公言してかなりそれより前の曲からの面影を意識的に退けながら新曲を作っていた印象があったが、ここ5年は少々匂いが似てしまっても気にしてはいないようだ。

これは、他のアーティストであれば「個性」で済まされてしまう話である。歓迎すべき事だ。大体デビューしたてのアーティストというのは1枚目のアルバムで様々なスタイルに挑戦してみて3枚目くらいで自らの得意分野を見極めそこらへんから個性が際立ってくる。当然その他とは異なるメロディの傾向も生まれてくるのだ。皆も以後その個性を期待して彼らの新曲を楽しむようになっていく。

デビューしてから12年の宇多田ヒカルUtadaは、その点が全く極端に異質だった。新曲は出す度に新ジャンルで新しいフックとリフに満ちていて、アルバム全体となると最早これがなんというジャンルの作品なのか分類不可能なまでに到っていた。強烈な楽曲たちの個性の集まりをヒカルの極上の歌声で纏め上げていたといえる。この歌唱力あっての“アイデンティティ”だったのだ。

それが今は、作曲面において「宇多田ヒカルらしいメロディ遣い」を漸く確立しつつある。本来ならサードアルバムくらい、デビューして3年とか5年とか経つ頃に見えてくる「その人なりの癖や傾向」が、23年近く経って漸く見えてきたような、そんな段階に思えるのだ。特に今回の新曲『君に夢中』も、特に歌メロの作りが「如何にも宇多田ヒカルらしい」と形容したくなる耳馴染みの良さを持っている。なんというか、いよいよそこにアイデンティティに近いものを見出し始めたのかなと。

ただ、それは歌メロのカタチに限った話で、ドラマの台詞回しの向こう側に薄ら聞こえてくるサウンド構成はどうやら今までにない新奇性を湛えているようだ。ピアノの出だしこそ『Stay Gold』を思わせるが、そのラインが飲み込まれていく先は今までのどの曲のトラックにも似ていない予感がする。楽曲全体としての新奇性という点ではデビュー後数年間の頃以上のものがありそうだ。

ヒカルについてきているファンも、随分長い時間を共に過ごしてきた。そんなファンに対して、歌メロの感触で安心させておきつつ現代的にアップデートされたサウンドをヒカルは次々に叩き込んできてくれているのかもしれない。嘗ては曲毎に分けていた役割─例えば『SAKURAドロップス』と『Letters』のような─、安心感と新奇な刺激性の両方を今は1曲に籠められるようになっている、とでも言えばいいだろうか。気になっている1点とは、即ち、その新しい戦略性のことであった。宇多田ヒカルは、アーティストとしての衰えとか怠慢とかからは、やはり最も遠い人なのでありましたとさ。